エッセイ
光本惠子のエッセイ
短歌は和歌である
- 2021年12月1日
- エッセイ
七世紀、西方から中国を経由して論理的な文字(漢字)が入って来ると、今まで話し言葉をその漢字を借りて表記するようになった。そこでお喋りしていた言葉(口承文学という)もふくめて、漢字の音を借りて紙面に残す作業を果たす。それらは「古事記」「日本書紀」「万葉集」とまとめられた。
出雲に近い鳥取の白兎海岸の近くで生まれた私は、隠岐の島に渡りたくて、サメをだまして、丸裸にされた白兎が大黒様に助けられた話をきいて育った。今住んでいる信州諏訪にもたくさんの民話が残る。諏訪族モリヤの逸話も諏訪神社の御柱の話もみんな、それらの古い本に書きとられた。文字として残っている。文字に表現することは素晴らしい。 (さらに…)
足立公平の歌集『飛行絵本』から
- 2021年8月1日
- エッセイ
一九六六年刊行の足立公平の歌集『飛行絵本』(デザイン工房エイト製作)は現代歌人協会賞。一九六七年に受賞。
口語自由律短歌で、初めて現代歌人協会賞を受賞した記念すべき歌集である。そこで今回は、足立公平の歌を中心に考えてみることとする。 (さらに…)
短歌を作ろう
- 2021年7月1日
- エッセイ
自在に詠める喜び
現在の香港やミャンマーの不自由な国政に怒りを感じる人も少なくない。
日本でも、今では想像も出来ない不自由な時代があった。戦前の日本は、口語で自由に歌を作る人に、定形で文語の短歌を作るように強要されることもあった。
一九四五年(昭和二十年)敗戦によって、世の中は自由になる。口語で自由にものの言える短歌を標榜する短歌誌「新短歌」(「未来山脈」の前身)を、と宮崎信義は立ち上がる。
「未来山脈」は月刊誌です。まず毎月十首歌を作る。それを一年続ける。一年続くと、五年続く。そして十年二十年と。
生きていのちの言葉を刻むのです。
さて「何を詠むか」を考えてみたい。一首ずつ見ていくと、今はやはりコロナに関連した歌が多い。七月号から拾ってみた。 (さらに…)
自由律短歌の音数
- 2021年4月1日
- エッセイ
定型の枠を外した自由律短歌ではあるが、三十一音の定型の律は常に念頭に置きたい。それは我々が作っているのは俳句でも詩でもなく短歌であるからだ。そこでここでは音数について語る。
それは歌のボリューム、厚さ幅といってもよい。短歌が内に持つ定量、適量というものがある。それは音数で言えば二十七音から、長くとも三十八音程度ということになろうか。この中に作者の思いを凝縮する。それ以上の音数だと、散文や詩のようになってしまう。短歌の求心性から言っても拡散され、述べたい気持ちが分散して、自由詩のようになってしまう。
また二十七音より少ないと、俳句のようになってしまう。いづれにせよ三十字前後の音数は大切である。
未来山脈の二〇二一年の三月号から短歌を見てみよう。 (さらに…)
連作の効用
- 2021年3月1日
- エッセイ
連作の効用
ひとつのテーマで十作作ってみる、 なにか物事 ははっきり見えてくるではないか。 このような短歌の作り方を連作という。 花を見ても鳥に接しても、一首で思いを盛り込もうとすると、あれも入れたい是も入れたいと、何を歌おうとしているのかわからない。具沢山の吸い物のように、何が何だかわからない味になってしまう。いま目にしている写生を十枚の絵に描いてみるように、 丁寧に一首ずつ短歌に詠んでみる。 さてどうなるか。一首一首が引き締まった作品の上、さらに十首を詠み終えた時の満足感はなかなかいいものだ。 鳥の飛ぶ姿、花の可憐でそれでいてしっとり咲く花のちから。初めて、対象があぶり出されてくるのではないか。
風景ばかりではなく、対象が「人聞」についても連作の効用は大きい。次に人問、宮崎を詠んだ作を記す。 (さらに…)