短歌(口語短歌)とは

短歌は時代と共にあります。その時代の言葉で分り易く、すなわち、普段使い慣れた言葉(口語)で、二十六音から三十八音くらいに自在(自由律)に表現する。そのことは伝統短歌からみても決して違うものではありません。古典和歌から現代に至る短歌の歴史を紐解きながら、口語自由律と文語定型との成り立ちを紹介します。

上代歌謡は口語自由律

日本最古の合同歌集「万葉集」は四五〇〇首の和歌が収められていますが、半数は五七五七七にとらわれない自在な形式で成り立っています。さらに、「詠み人知らず」の歌もあるように、貴賎を問わず、誰にも短歌が歌える、広く一般庶民の文芸でもあったのです。特にその歌い方は、生真面目とも思える率直さで、官能的、かつ、おおらかだ。歌に託した情熱は、明日への回復力となっただろう。歌作りとはとう言うものでありたい。

「古今和歌集」以降

短歌が王朝貴族的と言われる理由は、平安時代に、紀貫之が編集した「古今和歌集」が醍醐天皇の命による勅撰和歌集ということ。この和歌集の歌人も、貴族などの上層の人に限られていた。
和歌の文語定型とする源流は「古今集」の序によるところが大きいのではなかろうか?紀貫之はその序である「仮名序」で次のように述べている。

「ひとの世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字(みそもじ)あまり一文字はよみける」

三十一音節の短歌を、すなわち和歌とした。これに習って三十一字の定型短歌が確立していったわけである。こうして和歌の形式は五七五七七に絞られてきた。
定型という枠の中で、様々な人の感情を織りなす彩りを歌い込まれ、それもまた短歌の面白さである。しかし、紀貫之が序文を書き上げた頃から、千年も時は経過し、短歌が文語に留まっていては言語の伝達の能力さえ失いかねない。伝統とは既存の概念に固執することではなく、何を受け継ぎ何を切り捨てるかであろう。

西洋的自我の目覚め

文明開化の明治期に入ると、短歌の世界にも、西洋の詩やキリスト教的人間愛、真実の嘆きを詠み込むようなヨーロッパ浪漫派、自然主義思想の影響が、どっと押し寄せた。
徐々に口語の歌も作られるようになった。既に小説では言文一致となり、女流作家の樋口一葉あたりを最後にして、文語で書く小説家はほとんどいなくなっていた。

口語自由律短歌の最盛期

大正デモクラシーの頃から短歌の上でも自由を求める志向が高まり、昭和十年前後、口語自由律短歌運動(新短歌運動ともいう)は益々盛んとなった。修練道的で懐古趣味的な短歌を憂いていた歌人たちは、踊り出るように短歌の方法に挑み思索した。それは、まさに短歌革新の情熱で歌壇を焦がす勢いがあった。
ところが惜しいことに、第二次世界大戦の勃発で多くの歌人が貝のように口を閉ざすか、時の権力者に迎合するかのいずれかで自分の思いに蓋をしてしまった。創作する者にとって、辛く息苦しく暗いトンネルの時代でもあった。

戦後の新短歌

戦争で口語歌は、ほとんど壊滅状態となり、国の圧政と統制の中で伝統の文語定型に戻っていかざるを得なかった。
そんな時、戦争から戻った宮崎信義は、口語自由律短歌の復興への意思を固く持った。昭和二十四年、宮崎は千賀浩一、柳原一郎、橋本甲矢雄の協力で「新短歌」を創刊して口語自由律短歌の再出発に踏み切ったのである。当時、口語自由律短歌は、歌壇からは異端扱いか無視されるか、ともかく隅の方に追いやられて、まだ、戦争の打撃からは抜け出ることも出来なかった。
宮崎はそんな中、粘り強く「現代人が現代の言葉で短歌を作ることは当然のこと」と気負いもせず、淡々と、戦前からの考えを曲げず、こつこつと歌誌「新短歌」を毎月発刊し続けた。この地道な活動は、俵万智以来の口語的短歌への目に見えぬ橋渡しであったといえるだろう。
他には、大正十四年創刊の西村陽吉主宰の「芸術と自由」が、東京で昭和三十九年復刊された。その他にも歌誌「生活ロマン」「北土」「青空」「廣野」などの口語雑誌も発刊されており、それらを中野嘉一「新短歌人連盟」が口語歌人の総括をしている。

口語歌は誕生しておよそ八十年。紆余曲折を経ながら、今、着実に多くの歌人に歌い継がれ、文語定型、口語自由律短歌の区別も解消の傾向にあリます。