未来山脈の命名

・7台の自動車連ね未来山脈を行く口語歌の旗きらめかせて

(光本恵子歌集『おんなを染めていく』)

「新短歌」の大会を信州諏訪と安曇野で行ったのは昭和の末、7台の車を連ねて諏訪から安曇野まで行き、歌会をした。その歌から口語短歌誌「未来山脈」を命名したのであった。山国信濃から足腰を鍛え直し、未来に向かって希望を短歌に託すとの狙い、特に口語自由律の世界を歌壇に打って出ようとの思いも込めました。それは宮崎信義の願いでもあったのです。ざっと今日までの「未来山脈」を語ると、

※昭和24年(1947年)

「新短歌」は宮崎信義ほか4名のメンバーで戦前からの口語自由律歌人を、戦後としては最初の口語自由律の短歌誌である。

※昭和39年(1964年)

来年の東京オリンピックを前にウキウキ気分の日本であるが振り返れば、その第1回の東京にオリンピックが開催された年の昭和39年のこと。

鳥取県米子の高校から京都の大学に入ったわたしは、宮崎信義の「新短歌」に入会。それから1年経った頃、京都学生連盟短歌会「幻想派」では永由和宏、北尾勲、遠山利子、安森敏隆、河野裕子らに出会う。

※平成元年(1984年)

先きの短歌から名前をとり「新短歌信濃」のあと「未来山脈」と名づけて独立し、短歌結社を信州の地に打ち立てる。副題として、―現代口語短歌誌―と銘打ち毎月発刊した。徐々に世間から認められるようになっていく。

※平成14年(2002年)

学生時代から学んできた京都の「新短歌」と合併し、第二期「未来山脈」となる。

 

口語自由律とはいえ、どこまでも制限がないわけではない。短歌である以上、定型律、言葉の重さ、定量を念頭に入れて、10回は声に出して読み直し、リズムを整え求心的に詠まねばならない。一首一首思いをこめて口語自由律短歌を詠みたいものだ。