小倉百人一首と和泉式部 ――歌かるた―― 

私の住む諏訪周辺には平安時代の歌人・和泉式部(いずみしきぶ)を偲ぶ遺跡がのこる。

諏訪の高島城主の墓がある温泉寺には和泉式部の墓もある。さらには、鎌倉街道沿いの下諏訪町の来迎寺の境内には和泉式部の銕焼地蔵尊像(てつやきじぞうそんぞう)がある。これは京都から時頼が担いできたと伝わる像である。その横には和泉式部の歌碑がある。

・あらざらんこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢うこともがな
(わたしはこの世にいるもの、あとわずかでしょう。せめてあの世への思い出にあなたにもう一度お会いしたい)

「百人一首」に採られた和歌である。さまざまな男性と愛を交わした和泉式部という女流歌人は和歌も上手かった。とくに恋の歌がいい。最初に結婚した和泉の守・橘道貞(たちばなみちさだ)との間に小式部内侍がいる。娘の小式部も歌人となるが母より早く産後をわずらい亡くなってしまった。和泉式部は冷和泉天皇の第三皇子為尊(ためたか)親王の愛を受け、その三角関係から夫と離別した。また第三皇子の死後は第四皇子敦道(あつみち)親王に愛された。敦道亡き後は丹後の守・藤原保昌の妻になる。

別れた昔の夫の道貞は陸奥の守(かみ)となった頃、その人を訪ねて、この信州に通ったのかもしれない。しかし彼女の墓は日本のあちこちに存在するのでどれが本物か定かではない。

藤原道隆の娘一条天皇に嫁いだ定子中宮、定子に仕えたのが「枕草子」の清少納言。道隆亡き後、弟の道長は自分の娘影子を一条天皇の妃にする。道長は、娘に添わせる女性をなんとか清少納言より優れた女性をつけたい。そこで都中から探しだされたのが「源氏物語」の作者の紫式部と伊勢大輔(いせのたいふ)。そこに加わったのが和泉式部であった。

これらの女性の和歌が「小倉百人一首」に採りあげられている。

 

その『小倉百人一首』とはいつ頃できた歌集なのか。

鎌倉時代の代表歌人・藤原定家が『古今集』から『新古今集』までの勅撰和歌集の中から秀歌と思われるものを、定家が山荘の障子の色紙に書きたいと百首選んだ「百人秀歌」(宮内庁蔵)が原点といわれる。小倉とは、今の京都嵯峨野にある小倉山。そこで編集されたのが現在の『小倉百人一首』といわれる。

・大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天の橋立

(小式部内侍の作 母・和泉式部の住む丹後の山は大江山や生野の山を越えねばならずわたしはまだ行ったことがない母の文も見ていない)

「小倉百人一首」は優雅で恋の歌が多く、近世以降には、歌かるたとして一般大衆に広まっていった。