成功と持続と

さまざまな文学関係の授賞式に参列することが多い。
先日は角川の短歌賞、俳句賞の授賞式に参列した。最近では文学賞では第150回芥川賞、直木賞が決まった。
角川短歌賞を受賞した早稲田の学生Y君は「短歌が嫌いだ」と会衆の前、大声で怒鳴り続けた。
紙面では「高田馬場の食堂で第一報を受けたときは足が震え、視界がかすんだ」ほど嬉しかったと書いているのに。いろんな感情が行き来するのだろう。受賞者の喜びの声を聞いていて思うことは、「この人たちはつづくのだろうか」との思いをつよくする。途中で消えていく人があまりに多いから。
一ケ月、一年、十年、二十年と生活していくうちにはさまざまなことに遭遇する。「文学なんってやっていられない」「食うことに精一杯、短歌を詠むような余裕はないよ」と。興味を失い、或いは経済的な理由を吐いて辞めてゆく人がいる。だれしも当然平坦な日々ではない。
スポーツ選手は「優勝台に上っている自分をイメージして、それに向かってトレーニング」すなわちイメージトレーニングをするときく。なにもオリンピック選手に限ったことではなく、わたしたちは未来に向かって、もっと言えば死に向かって生きている。何もつけず、何も持たず生まれてきたように、何も持たずにあの世にもどるだけのこと。それを虚しいと思う人もいる。が、だからこそ、今を充実させたい。
さまざまな出版社や個人で賞を出して、文学や短歌のそれぞれの世界を活発にしたいと賞を出す人、それに応募する人、その結果、幾人か選ばれて、文壇、歌壇でやっていこうとするのである。が、その人たちがどこまでやり続けるのか。ある面でプロの小説家、歌人として成っていくには、書き、詠み続けねばならない。
ある結社で短歌をやろうとする若者がいる。先ずは五年そして十年つづけて、何とかものになつてゆく。
こうしてみると、上手い下手ではなくやり続ける意思こそが「ものごとを成す」。それには好きか、嫌いかが大きな要因だ。好きならば、つづけることができる。面白いと思えば、他人が「大変なことね」「よくつづいているわね」と怪訝そうな顔で言ったって、動じない。ただ仲間に励まされ、競争心を持ってやっている場合は、仲間同士のトラブルから辞めていく場合もある。本当に好きならば、どんなトラブルも回避できる。そんな勇気が必要だ。生きるとは決断と勇気。やりたいことが明確にある人はどんな事にも耐える根性がある。そのことが成功の鍵を握る。