一九六八年「幻想派」の時代

京都学生連盟「幻想派」時代の前後はどんな時代であったか昭和四十二年一月一日発行「幻想派」〇号の最初の歌を取り出してみよう。
①饒舌の呼び寄せる夏 目くらむばかり向日葵の群れやまず  (序奏曲・夏 永田和宏)
②癒へしのちマルテの手記も読みたしと冷たきベッドを撫でつつ思ふ  (青き林檎 河野裕子)
③真珠の光の揺れ湖のなかから悔悟の窓開けてくる

昭和四十二年(一九六九)の前後の時代を考えてみたい。
四年前の昭和三十八年(一九六三)の十一月二十二日。アメリカのケネディ大統領の暗殺があった。大学受験のために、高校に居残って受験勉強していたその教室に情報が入り驚いた記憶がある。更に半月後の十二月にプロレスラーの力道山が刺されて亡くなるという事件が起きた。
私は昭和三十九年(一九六四)この春から鳥取からことこと急行列車に揺られて京都の学生になっていた。
その年の十月には東京大阪をわずか三時間で走るという東海道新幹線開通。十月十日がオリンピック・東京大会。九十四か国の選手が参加。東京はオリンピックで燃えていた。私は東京まで行く金もなくラジオと新聞でオリンピックを知るだけ。しかし、市川崑監督の映画「東京オリンピック」を見た。夕日を背にして、アベベが競技場に走ってきた姿が今も焼き付いている。
そのころ、二歳下の河野裕子は京都女子大の付属高校にいたが彼女は病に伏してしばらく休学。
昭和四十二年。二年遅れて入学してきた河野は死生をさまよった病が快復し「生きる」意志と気力がみなぎっていた。短歌にも積極的に対応。そのころ「幻想派」〇号が出版されたのであった。河野は短歌に果敢に立ち向かう態度に比べ、私は大学三回生で、卒論にかかろうと江戸文学に邁進していた。当時歌壇は口語短歌などは目に入っていない。塚本邦雄などの前衛短歌が華やいでいた。そのころ私は「新短歌」の自在さに魅かれて宮崎信義の許に弟子入り。
このころ小田実の「べ平連」のデモが盛んで、わたしもデモ行進に、京都府町から円山公園まで歩くこともあった。
河野も宮崎のところに通うこともあったが、すぐ「コスモス」に移った。その次の年、昭和四十四年には角川の短歌賞を河野裕子は受賞。
そんなころ永田和宏は河野裕子に出会った。