幻想旅行の出発 - 「幻想派」0号を読む

「幻想派」0号は一九六七年に発行された。今年は二〇一八年。あれから五一年も経つのだ。二十代だった我々は今七十代になった。当時どんな歌を作っていたのか、検証してみるのも面白い。

・君の瞳の運河をのぼり星を撃つたった一つの声が在るなら  (川口絃明)
・川音にききいるる白き遠さよ童話うまるるかたちのくちずけ  (稲美紘之)
・みずみずと熟れたるメロン含みたる傷みとなりて甦る夏  (児島真枝)
・あまりにも星が重たい あの人の肩の溶けそうなやさしさ  (三船温子)
・森越えて故郷売りゆく仲介業者やわらかき部分残してゆきつ  (田中富夫)
・ほとほとに疲れて帰る街角のホットドッグより血は垂れ落つる  (永田和宏)
・ふつふつと湧くこの寂しさは何ならむ友ら皆卒へし教室に立つ時  (河野裕子)
・一瞬たじろいで振り返った湖 人影もなく銀色に震えている  (光本恵子)
・蹴る石ころがない 冷えたコンクリートの上で歩調を乱せないでいる  (遠山利子)
・そむかれしその確かさに崩れていて夕べ紫紺の茄子のやさしさ  (橋本弘子)
・我が裡に巣くらふ飢餓をおさへつつ見てゐたり蒼き海の展がり  (金沢照子)
・ふし穴から明るき世界のぞきいて四角の部屋に幾度の夏は来る  (桐林康弘)
・今まさに井出せんと声あぐるとこしなえに輝く門柱  (北尾勲)

この他に評論として安森敏隆の〈斎藤茂吉幻想論〉、西尾昭男の〈前衛の拠点としての短歌性論〉が載っている。

北尾勲があとがきで「鈍行列車にせよ急行列車にせよ、行き先を問わず乗車することの意味を一度考えてみる必要があるのではないか…これが幻想旅行のはしりである。」と記している。
その後は列車を下車した人、特急に乗り換えた人。私は鈍行列車のまま今日も短歌と格闘の日々である。そこに永田知宏・河野裕子の息子、永田純君から電話が入った。「二〇一八年一月九日安森敏隆さんが亡くなられました」と。