「短歌雑誌連盟」第一回特別賞に輝いた宮崎信義

・笑われても罵られても気にはせぬ星の一つをぐっと飲む (いつどこで)
・失望したりしょげはせぬ甘えもしない道は自分でつけてきた (いつどこで)
・ふるさとの自然に還る―それが何より生まれ育ったところなのだ (絶筆・もうお任せだ)
(宮崎信義遺歌集「いのち」から)

これらの短歌は宮崎信義九十五歳の作である。宮崎は昭和六年に前田夕暮の「詩歌」に入ってからの口語自由律をとことん追求した、思いを率直に平易に短歌に綴ってきた。それは命を吐き出す行為であった。歌壇全体からは保守性の強い中で、宮崎信義に光を当てようとする人は少ない。が、宮崎信義は生前いくつかの賞を受賞している。平成七年に第三十一回短歌研究社賞を短歌研究社によって受賞もその一つではある。その後の宮崎の仕事ぶりを福田龍生はよくみていた。
「短歌雑誌連盟」は毎年、短歌雑誌を受賞の対象としている。「未来山脈」誌は平成十六年に受賞した。そのあと最晩年の九十三歳の時、特別賞ができる。その第一回特別賞として、宮崎の受賞が決定した。京都から東京へやって来た宮崎を私は東京駅に迎えに行った。「良い置き土産ができた」と喜んでいた。それからの三年間は三冊の短歌集を出版し、九十六歳と十ヶ月で亡くなった。
平成二十二年(二〇一〇年)十二月に短歌研究社より遺歌集「いのち」宮崎信義を出版。宮崎信義が亡くなった一年目に出たものであり、宮崎十三冊目の歌集である。
宮崎信義は平成二十一年(二〇〇九年)一月二日食道癌のため自宅で眠るように亡くなった。宮崎に呼ばれて亡くなる二週間前に、私は京都の右京区宇多野の自宅を訪ねた。そこでこの「いのち」と手書きされた原稿を渡されたのであった。
亡くなる一年前まで宮崎は今までの短歌をすべて整理して、歌集にまとめ出版した(十二冊まで)。この短歌は自身の死期の迫っていることを考えたとき、もう時間がない、歌集にまとめられないと思ったところからの作品を手書きで残したものであった。自身のすべてを単行本として遺そうとする宮崎信義の短歌への執念のようなものを私は感じた。短歌自身の身体から絞り出すような作品である。短歌として遺しておかねばと思う意欲が感じられるのである。すべて「未来山脈」に掲載されたものであった。