命ある限り学びたい ~下諏訪の結社へ入会の申し出

信濃毎日新聞 2018年(平成30年)7月3日

命ある限り学びたい

下諏訪の結社へ入会の申し出

 

「私は死刑囚ですが、そんな者でも会員になって短歌を詠むことができますか」
2004年8月のある日、諏訪郡下諏訪町の歌人、光本(みつもと)恵子(けいこ)(72)の自宅に、岡下(おかした)香(かおる)という人物から手紙が届いた。光本は月刊の短歌誌「未来山脈」を主宰しており、入会の申し出を受けることは珍しくない。だが死刑囚からは初めてだった。そもそも東京拘置所からというだけで、気が動転した。死刑の執行も行われる巨大な刑事施設だ。
手紙はその一室で書かれた。薄いリポート用紙に、細かい字がびっしりと並んでいた。人をあやめて死刑判決を受けた身であること、同誌が「今日の言葉で自在に」と掲げていて取り組みやすそうだったこと、何より「未来山脈」という言葉の響きに引かれたことなどが率直に記されていた。
「未来への導きであるかのようで心地よく響き(中略)私のような者でも受け入れてもらえるなら、無学だが生命のある限り短歌を学んでみたい」(岡下著「終わりの始まり」より)
光本は大きく深呼吸して、ゆっくり考えた。人をあやめた-。殺人犯への恐れが胸を覆った。

岡下香(歌集「終わりの始まり」より。撮影年不明)

光本はかつて、繰り返し同じ夢を見た。
井戸のような穴に落ちて、気がつくと一面クマザサの野が広がっている。ふるさと鳥取県の、小学校の周辺のようだ。崖があって、その先は海が広がっているはずだ。細い道をずんずん歩いて行くと、教会のような荘厳な建物が見えてくる。近づこうと思うが、足元には川か沼がある。
「そこに入りそうになるんだけど、いつもそこで目が覚めるんです。今思うと、あそこに入ってしまっていたら、きっとこの世には戻ってこられなかったのかな」
実は当時、生死をさまようほどの病に侵されていた。鳥取に里帰りして、26歳で長女を出産。それから20日ほどして、下半身からレバーのような塊が出血を伴ってこぼれ落ちた。不調に苦しみながらお宮参りを終えたが、40度の高熱に見舞われた。実家で意識を失い、救急車で大学病院に搬送された。(痛みを除いて下さい下腹部も胸も 哀しい顔で見ていらっしゃるのは神様ですか)(沈んでいく 落ちていく 眼を閉じると真っ暗な階段に海鳴りの音)(光本著「薄氷」より)
子宮内にできるがん「絨(じゅう)毛上皮腫(もうじょうひしゅ)」と診断された。敗血症と骨盤腹膜炎も併発。看護師たちがひそひそと「あの患者さん、退院できないかもしれないね」と言うのが聞こえた。「あまりに痛くて苦しくて『神様、私を殺してください』と言ったの。あなたのそばに行けばきっと安らかになるんだろうと思って」

 

大量の輸血と抗がん剤による治療で快方に向かうと、何かが自分の体や心の中に入ってきたような、不思議な感覚に襲われた。どこからか「あなたにはまだ仕事をしてもらわなきゃいけない」と言う声が聞こえた。
(死の淵を通り過ぎた闘病のあと海に沈む茜(あかね)色の炎が私を燃やす) (同書)
自分の使命は何か―。学生時代に取り組み始め、死線をさまよった自分を支えた口語自由律の短歌が脳裏に浮かんだ。約7カ月後に退院し、夫らが待つ信州・下諏訪へと戻った。
「信州を中心に、日本全国に口語短歌を広める。短歌によって救われたことをこの世に示していく」その思いは、50年余たっていても変わらなかった。死刑囚であっても「短歌を詠みたい」という相手を、光本は無視できなかった。手紙にあった「生命のある限り短歌を」という言葉が膨らみ始め、ついに恐れを押しのけた。おもむろにペンを執った。
「あなたがどんな罪を犯したかは知りませんが、どんな人でも基本的に人間は平等です。歌を詠みたいという意思さえあれば、『未来山脈』に入ることができます」
(敬称略)
◇…………◇
死刑執行までの約3年8カ月、光本は手紙を寄せた岡下(執行時の姓は秋永、1946〜2008年)と交流を続けた。岡下は獄中で執行を待つ恐怖、ふるさとや家族への思いなどを率直に歌った。執行から今年で10年。岡下は短歌を通して、命や罪とどう向き合ったのか。死刑の是非を巡る議論も踏まえて、一人の人間の生と死をなぞり直してみたい。(上野啓祐)

 

未来山脈
諏訪郡下諏訪町在住の光本恵子が主宰する口語自由律短歌結社・短歌誌。口語自由律短歌は大正時代に盛んになったが、伝統回帰の圧力が強まった戦時中に下火になった。戦後の1
949(昭和24年、京都に住んでいた宮崎信義(1912〜2009年)が「新短歌」を創刊して再興した。「未来山脈」は「新短歌」の信濃支部会報として1989年に創刊。2002年に「新短歌」を合併した。現在の会員は県内外の約150人。