木曽義仲と今井兼平

六月十日、岡谷を出発したバスは「平家物語」の仲間をのせて、京都駅に到着。京都駅から滋賀県の彦根方面へJRに乗る、十分ほどで琵琶湖のほとりの膳所駅につく。荷物をロッカーに預けると身軽になった。ここから義仲寺まで歩くことにする。今から九〇〇年も前のこと。義仲は冬の泥沼のような「粟津の浜」(現在の大津市南部膳所駅から琵琶湖方面に徒歩二十分のところ)で馬の脚をとられた処を、義経軍によって弓を射られて亡くなった。現在の義仲寺はその場所にある。初めは小さな祠だけの墓であった。巴御前らしき媼が弔ったらしい。その後、戦国時代には墓は消滅しながらも江戸時代になると、松尾芭蕉が義仲の哀れに共感し「自分が死ねば義仲の墓の横に」と伝えられる。現在では義仲と芭蕉二人の墓が仲良く並んでいた。いくつかの芭蕉の樹木があるなか、芭蕉の花が黄色く薄い花もついて咲き乱れていた。

次は「平家物語」九巻にある「木曽義仲の最後」の場面。

巴御前は「最後に女を連れていたとなれば笑いものになるからと、巴を追い返した後に、乳兄弟の今井兼平が現れる。

「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、一所でこそ討死をもせめ。」と琵琶湖のほとりで、やっと会えた旭将軍木曽義仲と第一の家来・今井兼平。後白河法皇に義仲を殺すように依頼された頼朝の軍は義経率いる。幾度か危ない場面を何とか切り抜けて、京の都から大津の粟津の浜まで、逃れてきたのは、乳兄弟の兼平とともに最後を飾ろうと思ってのこと。

対象は松林の方で自害してください。あとは私が戦いましょう。と義仲を逃そうとしたその時、一月の寒い湖畔の泥砂に足をとられた義仲に三浦の石田次郎の弓がヒューと。眼前で亡くなった大将を見て、「俺の自害する姿を見よ」と刀を口に含みながら馬から真っ逆さまに落ちて自害する兼平の最後である。

やはり、義仲寺には、芭蕉の墓もいいが、今井兼平の墓も並んでいたがよい、とわたしは考える。

京都の学生時代、石田さんという小説を書いている学生がいた。彼は静岡県の出身。曰く「俺の先祖が木曽義仲を撃った石田次郎だ」という彼のことばが耳にのこる。

光本恵子のうた一首
・義仲の横にあるはずの義兄弟・兼平の墓石が無いのは気に入らぬ