短歌会「未来山脈」の歴史


「未来山脈」と「新短歌」

2002年の初頭、宮崎信義主宰の「新短歌」誌と光本恵子創刊「未来山脈」誌の合併があった。
敗戦から四年目の昭和二四年(1949)に戦前から口語自由律歌を読み続けた歌人に呼びかけて「新短歌」は創刊された。それから五十四年が経過し、宮崎は九〇歳を機に弟子の光本に合併の話を勧めた。「明治時代から続いてきた口語短歌運動を自分一代で終らせるわけにはゆかない。引き続いてその運動を担ってほしい。」

光本自身は昭和三九年に「新短歌」と出会い、仁和寺のそばの宮崎の家を訪ねたのが一八歳の初夏であった。京都の多くの学生が宮崎の門をくぐっていたが、三十数年経て、その歌友は光本だけになっていた。それから数年後、平成元年に「新短歌信濃支部」から「未来山脈」誌を立ち上げた。宮崎の口語自由律歌の意思を受け継ぎささやかながら口語自由律歌を続けていこうと考えてのことであったが、宮崎の合併の依頼に「今後とも新短歌を背負って引き続き運動としてやってほしい」との論に責任の大きさに戸惑った。が、結局は応えることとなった。

宮崎と光本にとっては師弟の関係だけではなく、まるで父のように、つかず離れず見守られて来たのであった。そんな立場で、父の言いつけに従うように、光本は「新短歌」を引受けることになった。

こうして、平成十四年一月号から第二期「未来山脈」は、代表・宮崎信義、編集発行人・光本恵子として出発することになる。

何故「未来山脈」なのか

ところで、合併したときなぜ結社名を「新短歌」としなかったのか。ここで応えておきたい。
大正時代から昭和初期に口語短歌を一度は作ってみたい思いに駆られた歌人は多い。隆盛とまで言えるかは疑問だか、モダニズムとか自由律の革新的、芸術的短歌がもてはやされた時代でもあった。それらを総称して“口語短歌”とか“現代語短歌”とか“新興短歌”とか“口語自由律短歌”などと言った。総称して“新短歌”という言い方が大方をしめた。ところが、昭和二四年に創刊した雑誌名を「新短歌」に命名したことにより、歌誌名と短歌の形式名との混乱をきたす源となっていた。そこで宮崎は光本に譲るとき、雑誌名「新短歌」の改名を希望した。そこですでに既刊していた「未来山脈」の名称に、宮崎も賛同したのである。