島村抱月と松井須磨子

長野県松代に松井須磨子の墓がある。先日お墓参りしたので、島村抱月と須磨子について書くこととする。

島村抱月は明治4年(1871)に島根県浜田市の近くの金城町に生まれた。隣の県の鳥取県で生まれたわたしは抱月のことを身近に感じていた。抱月、その妻・市子夫人と抱月の恋の相手松井須磨子は長野県松代の人である。

・名も知らぬ信越線の停車場に小娘ひとり立つ雨の暮

・ある時は二十の心ある時は四十の心われ狂ほしく

・かりそめに結びし紙の誓ひにも末をかけたり住吉の宮

・ともすればかたくなりしにわが心四十二にして微塵となりしか

以上の短歌は大正元年(1912)9月の『早稲田文学』に「心の影」と題して詠んだ島村抱月の短歌である。

これは明らかに松井須磨子を詠んだ歌である。外国留学から欧米の文学、美学などを研究して帰国した抱月は真に命を燃焼するほどの恋に出会う。市子という妻がありながら、須磨子に身も心も奪われてしまう。

しかし、早稲田大学で嘱望されながら恋の中で果てた抱月は幸せな48年であったとわたしは思う。

最初の歌の「信越線の停車場」には須磨子が抱月を待っていたのであろうか、いや、彼女の意を決した上京の日のことを思って詠んだのか。この信越線は明治21年(1888)には上野から、高碕、軽井沢、長野、直江津まで開通した。長野県ではもっとも早く開通した鉄道である。(現在はしなの鉄道に変る)

須磨子は明治19年(1886)に長野松代に生まれる。『牡丹刷毛』(ぼたんばけ・松井須磨子著大正3年新潮社)いま昭和23年復刻版が手元にあるので、そこから見ていく。本名・小林正子は東京風月堂に嫁いだ姉を頼って上京。洋裁学校に通いながら紹介されて結婚。しかし訳も分からないうちに離縁される。その後、同郷の教師・前沢と結婚。彼に勧められて坪内逍遥の文芸協会に入会。文芸協会の第一回公演『ハムレット』では須磨子はオフェリアを演じる。第二回公演の『人形の家』のノラ役。妻である前に人間として生きたいと夫と子を捨て家を出るノラ。主役の須磨子と、翻訳、演出の方月。抱月には二度も離婚した須磨子と「女だって人間として生きたい」と思うノラがダブって映る。

大正7年の秋、日本にスペイン風邪が大流行。これに罹った須磨子を看病していた抱月が大正7年11月5日、この風邪のために48歳で逝く。それから遅れること2ヶ月、須磨子は大正8年1月5日、芸術座の裏で首をつって後追い自殺するのである。