歌評 光本恵子『口語自由律短歌の人々』評 さいかち真
- 2019年4月22日
- エッセイ
太宰治に関心のある人は、この中ではまず太田静子の「短歌と方法」時代、太田治子と六條篤、の章を真っ先に読みたいと思うだろう。
著者がなぜこんなにも口語自由律短歌にまつわる人々にこだわり続けるのかがわかる文章がある。「松本みね子との出会い」の章から引く。
「松本みね子は大正四年九月三十日に京都市上京区、西陣の賃織職業、山田徳次郎の六女として生まれた。商工専修学校を卒業後、昭和三年から京都市役所に勤務した。 (略)
私がはじめて彼女に出会ったのは昭和三十九年の春であった。友人と連れ添って加茂川のほとりの家に訪ねた。白い割烹着のまま玄関に現れ、通されたところは台所。
「私はねえ。短歌があったから生きてこれたんや」といきなり語気を荒げて、こぶしを振りながら語る松本みね子その人に出会ったときは強烈な印象を受けた。世間知らずの田舎から出てきたばかりの私は「何やそのざまは、生きることは奇麗ごとではないよ、大変なんや」と水をかけられたような衝撃を受けた。
掌よ 五本の指の自由さよ 何んにも持たずに死のうでないか
毛虫よ毛虫 その色彩で芙蓉と競え おなじいのちを生きているのだ
さんとして春がかがやき 白い手袋が方向を教える 朝の十字路
この様に人の心も熟れたいと 晴れた日の 朝の苺に云いました
不思議と魂をくいちぎられてもいきています そこは 美しい人間の街です
ああ人生を完走せよと 私の残るいのちに火をつけた 重放火犯ビキラ・アベべ
(一二六ページより)」
おしまいの歌の「ビキラ・アベべ」は、前回東京オリンピックで優勝したエチオピアのマラソン走者の名前である。「重放火犯」というのは、私の心に放火した犯人ということで、素朴だが強烈な修辞である。引用された歌の一首目も二首目も、ストレートで力強い。松本みね子は、「わたしはわたしの新短歌を抱いて川をじゃぶじゃぶわたります」と病床で言って亡くなったそうである。壮烈な生き方だ。
著者の著作活動には、生活派、プロレタリア短歌の系譜の最後のバトンを渡された者としての使命感が感じられる。それは原点にこういう人との出会いがあったからだということを右の文章から深く得心する。
私個人においては、やはり前田夕暮、石本隆一、香川進などに触れた章に目が行くけれども、著者が言及した無名の作者たちの作品にこめられた切実な思いを、後世のわれわれがありありと感じ直し受け止めることが大事なのだろう。そのようにも短歌は感情を盛ることができる器である。(ブログから)