齋籐史の歌

・つねに追はれ通り抜け来し四十年 ドアを開け

ドアを閉め流刑の部屋

(第六歌集『密閉部落』〝山に放つ眼〟)

齋籐史は明治四十二年に生まれ平成十四年に逝く(一九〇九~二〇〇二)。平成十四年四月二十六日に九十四歳の命を閉じた。史を語るとき、昭和十一年の二・二六事件を見過ごすわけにはいかない。一九三六年二月二十六日、陸軍の現役青年将校らが兵士を率いて首相官邸などを襲撃する事件が起きた。彼らは処刑となる。そこに父の齋籐瀏が連座していた。処刑された者の中に同級生や下級生もいたのであった。史はこの事件を一生背負うこととなる。昭和二十年末日、焼け野原になった東京をあとにして家族とともに信州へ疎開する。そうして史は信州の人となった。右のうた「流刑の部屋」のフレーズは疎開した信州もまた史の眼にはこのように映ったのであろう。
齊藤史第六歌集『密閉部落』は宮崎信義の遺品の本の中にあった歌集である。齋籐史と宮崎信義の歌は反骨精神とシュールなモダニズムのところで結ばれていたらしい。

右の歌はその父が、戦後、信州に疎開して、亡くなった時の歌である。父の齋籐瀏は短歌結社「短歌人」を創った人としても知られる。その父は信州に疎開して、八年後に亡くなった。(一九五三年七月五日)七月父死す・劉、七十四歳として次の歌を史は詠う。

・われの背に残照がある窪地にて風はしばらく輪をなし廻る            (七月父死す・劉、七十四才)
・旅人として来るばかりなる松山のたづねつつゆくわが家の墓             (野の井戸・松本市木沢)
史は明治大正時代、軍人の父に従って、旭川、津市、小倉市、再び旭川と転勤し、その後東京に戻ってそこで、B29の東京爆撃にあい、その後、父の故郷の長野県に疎開。昭和二十年四月からそれからずっと信州の人。疎開して八年目の昭和二十八年、父齋籐瀏が亡くなった。