齋籐史のうた -第十一歌集『風翩翻以後』から-
- 2019年7月3日
- エッセイ
齋籐史は第十一歌集『風翩翻』の出版の後、平成十四年四月二十六日に他界した。その後、『風翩翻以後』(現代女流短歌全集68、短歌新聞社刊)が息子・斉藤宣彦によって出版された。これには光本も現代女流短歌全集7として参加している。
・わが手より放ちたるもの鳩の雛・熱気球・いま黄なるかまきり
・つねに何処かに火の匂ひするこの星に水打つごときこほろぎの声
・堂々と今年も赤き実をつけし渋柿はわが亡きのち伐らるべし
また史は「原型」平成十三年十一月号に次のように書いている。
――「齋籐史歌文集」(講談社文芸文庫)九月出版の御縁をいただいた。その中に<おやじとわたし>の採録があり、二・二六事件に触れている。当時発表を見合わせた短歌数首があって、それを今回入れておこうと思いついた。
記録に類する作品にすぎないが、私の命終もさぼど遠くないと思われるからである。現在九十二歳。二回の乳癌手術を経た夏である。その本と合わせ読んでいただければ、その時代の証拠の一つともなるであろう。
・奉勅命令とは何なりし伝はらず 途中に消えて責任者無し
・知らぬうちに叛乱の名を負はされしわが皇軍の蹶起部隊(けっきぶたい)は
・幻の命令の行方聞く手段(てだて)さえあらず 弁護人持たぬ軍法会議
・死刑を含む千四百八十三名思はざる罪名をもて処刑されたり
☆齋籐史は講談社で本が出ると知った時、一旦は外した歌であったが、処刑された人のためにもこの歌をせめて採録しておきたいと考えたのであろう。
「あとがき」に息子の宣彦が次のように書いている。
――入退院を繰り返すようになってからは、入院用荷物の中に原稿用紙と使い古した4Bの鉛筆が必ず入っていた。そしていつもの六階の病室のベッドでは、身を起こして、盆地の遠くに光る千曲川を、黙って長い間見ていたかと思うと、もそもそと枕元の原稿用紙と鉛筆に手を伸ばす。――
私が最後に史に会ったのは、平成九年(一九九七年)十二月、東京神田の学士会館で第二十回現代短歌賞を受賞した時のこと。
当時八十八歳であったとおもうが、あの白髪交じりの波打つ髪を垂らして眼鏡の奥の眼は自信にあふれ華やかさを醸していた。周囲を圧倒するオーラを放つ女性であった。