「いのち」の自由律(朝日新聞 うたをよむ より)
2019年9月15日
朝日新聞 俳壇 歌壇
うたをよむ 「いのち」の自由律 光本恵子
うたは喜びであり、生きることそのものだ。「いのち」と言っていい。美しくなくてもいい。醜いものは醜いまま自由に何でも短歌にする。五七五七七の定型からはみだしてもいいのだ。わたしたちの結社は、普段使っている誰にもわかる易しいことばで自在に詠んでいる。
平安時代の紀貫之以降、歌は三十一文字の定型に決まってしまったかのようだ。しかし、それ以前の記紀・万葉の時代からもっと自由に歌は詠まれていた。
明治になると、石川啄木、前田夕暮など多くの人がああでもないこうでもないと、現代語でうたってきた。ところが一九四一年から始まった戦争の下、口語自由律の歌は壊滅寸前に追い込まれた。そんな時代があったと、いま想像できるだろうか。
私の師の宮崎信義は戦後、日本に帰還して戦中を思いだし次のようにうたう。
爆弾にびりびり地がゆれる 目をあけると右前にかすかに揺れているすみれ
呻き声呻き声 膿や血の匂い 小便の匂い その中に何人も知つた戦友がころがつている
また、荒れ野の中、戦後の女性は復興にがんばった。母であり妻である女の苦しさと喜びをうたう。
わたしのあばら骨の中で 夫と子供が肉をつつき 巣をつくる 金子きみ
あるいは次のような今の若い女性の作。自然体の歌がいい。
ねえねえ君はどこから来たの?フッと微笑む赤子の寝顔へ 藤森あゆ美
(歌人、「未来山脈」代表)