「未来山脈」70周年記念号「視点」特集・・・木村草弥
- 2019年11月11日
- エッセイ
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草弥の詩作品<草の領域>
poetic, or not poetic,
that is the question. me free !
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──「未来山脈」掲載作品──(特集)
「未来山脈」70周年記念号「視点」特集・・・・・・木村草弥
・・・・・・2019/11/08刊・・・・・・・
この特集号には、過去に「未来山脈」誌の「視点」欄に載せられた文章が、まとめて掲載されている。
私が2000年10月号に執筆したものも収録されている。 ↓
口語短歌の未来──「短歌現代」新人賞をめぐって──木村草弥
「短歌現代」八月号に第十五回「新人賞」の発表があった。
全部で184篇の応募のうち最終選考に残った二十名の中に、「未来山脈」所属の藤森あゆ美、岩下敦史の両君が含まれており
「佳作」として作品の十首が抄出されて載っている。(編集*本文32・33頁参照)
選考委員は来嶋靖生、杜沢光一郎、秋葉四郎、石黒清介の四人で、いずれも文語定型の歌人である。詳細は当該誌をお読みいただきたい。
この機会に口語短歌の未来について、我々が留意すべきことを、光本恵子『宮崎信義のうた百首』に即して少し書いてみたい。
宮崎信義は、つねづね、短歌は日本の民族詩として、これからも長く流れ続けていくだろう、と言っている。
宮崎信義は口語自由律短歌の運動を文字通り孤立無援でやってきた人である。
その方法に学ぶことは極めて大切なことである。
〇くり返していう これでよいのかほかに方法はもうないか (第八歌集『太陽はいま』)
この宮崎信義71歳の作品について光本は次のように書く。
ある単語を引き出すのに「漢字か、ひらがなか、カタカナか」の選択は当然、次にその言葉は「常套的か作者自身の生み出した言葉か」 「長さはよいか、長すぎないか」 「意味を変えないでもっと短い語彙がないか」 「俗語であっても、言葉の品位を失ってはいないか」 「リズムはどうか」など考えられる角度から推敲と検討を加える。
下句の「これでよいか、ほかに方法はもうないか」の宮崎の思いと言葉の重さを、いつも念頭において短歌を作っていかねばならない。・・・・・・・
さらに宮崎の作品を見てみよう。
〇地に長く光を集め地に長く闇をとどめて人は生きる (第九歌集『地に長く』)
〇嫁くか よかろう それがよい 短いやりとりのあとの親子の沈黙 (第五歌集『和風土』)
これらの短歌は音数律で区切ると五七五七六、三四五九三八、のように分析できる。
自由律と言っても、宮崎は日本古来の五音七音のような日本語のリズムを大切にする。
これは私が宮崎自身から聞き出したことである。宮崎の歌の無駄のないリズムというのは、こうして作られる。
今日、定型短歌が限りなく口語で、しかも定型に捉われることなく展開して来たのは誰の目にも明らかである。
その一方で、われわれ自由律の作家が、口語の持つ散漫さを克服して、いかにリズミカルな歌を創造するか、という努力が求められているのである。
いまでも「文語定型」にこだわる歌人が多い一方で、若い人は極めて自在に詠う。
例えば、「短歌研究」新人賞に輝いた千葉聡のような (歌集『微熱体』短歌研究社刊) 完全な「口語定型」の若い歌人も順調に育っている。
この本で光本が書くように、これからは「口語短歌だとか、文語短歌とかではなくただの短歌として、二十一世紀を迎えたい」という時代が来ることは確かだと言えるだろう。
新人賞の話題を機に、光本をはじめ、広く口語歌集を学んで視野を広めたいものである。
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もう二十年も前のことで、この記事を書いたのも忘れてしまっていた。
石黒清介も亡くなり、「短歌現代」誌も無くなってしまい、感慨あらたなるものがある。
改めて、この特集で再録してもらって有難い。
光本恵子・主宰の息の長い営為に対して、心からの敬意を表するものである。