「口語自由律短歌の命脈」現代短歌新聞 96号より
口語自由律短歌の命脈
佐藤 千代子
令和元年12月8日に「未来山脈七十周年記念大会」が湯島の東京ガーデンパレスにて執り行われた。結社「未来山脈」は光本恵子主宰を中心とする「口語自由律短歌」を標榜、実践する結社だが、出席者は94名、現歌壇を支える主要な歌人・批評家及び出版関係者が集う盛会となった。
式次第は、光本氏の挨拶に始まり、続いて歌人の藤原龍一郎氏による講演「口語自由律の光と影」が行われた。藤原氏は俳人としても活躍されており、口語自由律短歌の歴史を踏まえ、前田夕暮、尾崎方哉、種田山頭火等の作品を挙げて話された。
加えて辛口ではあったが、これからの「口語自由律短歌への十章」として韻文性をどう保証するか?など多くの問題点を具体的に示された。「口語自由律短歌」の将来への好意的で建設的な講演であった。
2部の祝賀会は、「星雲」主宰の林田恒浩氏の祝辞から始まり、水野昌雄氏による乾杯、多くの参加者からの祝辞が続き、明るい「未来」を思わせる宴であった。
さて、「口語自由律短歌」とは、改めて言うまでもないが、5・7・5・7・7の定型にとらわれずに口語によって詠まれた短歌である.
大正13年に歌人石原純の発表した作品が、歌壇において注目を集めた自由律の最初であろうと言われている。石原の昭和初期の作品を挙げてみよう。
・暴風雨のあとの火のやうに焼けたゆふ空。世界はなぜ燃えあがらないのだ。 石原 純
・秋になってごい鷺がしきりに鳴く。ひとつの星のさみしくなつかしい夜である。
石原は、その後「新短歌」(自由律短歌)論を展開し、この名称を定着させた。石原の自由律短歌は旧来の文語体ではなく口語体を採用したため、そのまま口語短歌運動と結び付き、「口語自由律短歌」として発展して来た。
昭和になると、金子薫園、土岐善麿、前田夕暮も参加し、口語自由律短歌は興隆期を迎えた。特に、前田夕暮は、主宰していた「詩歌」全誌をあげて自由律を提唱し、自由律短歌集を次々と刊行して、口語自由律短歌の代表作を残した。
・自然がずんずん体の中を通過する 山、山、山 前田夕暮
昭和4年、斎藤茂吉、土岐善麿等と共に飛行機に搭乗した折の作品という。
だが、昭和10年代半ばには、全員、定型短歌に復帰している。
宮崎信義は、昭和6年19歳の時、「詩歌」の口語自由律に賛同し、前田夕暮の白日社「詩歌」へ入社した。その最初の作品をあげる。
・九月の朝の太陽が生きる事の喜びを味はせて黒光りに磨かれた靴 宮崎信義
その後宮崎は、石原純の「立像」に参加、さらに逗子八郎の「短歌と方法」の会員となって作品や持論を展開していった。昭和24年、37歳の時に、橋本甲矢雄、千賀浩一、柳原一郎らの協力により「新短歌」を創刊し、以後50年間編集発行を続けた。
平成14年に90歳となっていた宮崎は、後継問題を鑑みて、1月に宮崎の「新短歌」と光本恵子率いる「未来山脈」の両誌合併号を発行した。
こうして実質的に口語短歌の継承を「未来山脈」に託した。宮崎信義は、平成21年に96歳で永眠するまでの75年間を「口語短歌」一筋に歩み続けたのであった。
これらの歩みと並行して昭和末期、ライトヴァース短歌と呼ばれた加藤治郎、穂村弘らの記号短歌や、字余り・字足らずの多い短歌群は、昭和初期の口語自由律に通じるものと言われる(和田耕作署著『石原純―科学と短歌の人生』評、猪野修治著作集より)。
このように「口語自由律短歌」の流れを見て行くと、定型に縛られるどころか、逆に定型に胡坐をかいている現代短歌の問題点も見えてくる。
「定型」の便利さは、気付かぬ内に安易に言葉を並べ歌にしてしまう。
以前、田島邦彦は、「定型をはみ出した一行のフレーズが、詩になるか否かの瀬戸際での決着、これは定型に寄りかかっている作者には分からぬ苦慮を強いられていると想像している」(生誕百年「宮崎信義の歌」)と書いた。自由律短歌からは多くの学びがある。今後も歌壇に刺激を与え、挑戦的であって欲しいと思う。
(歌と観照)