さくら
- 2020年4月2日
- エッセイ
いよいよ今年も桜のシーズンの到来。
岡谷市を見下ろす鉢伏山の一滴が川となって諏訪湖へそそぎこむ流れ。それが横河川だ。この上流から流れ落ちる一滴一滴が大きな流れを生み、市民の大切な水源ともなっている。それだけに人々はこの横河川を大切に守ってきた。
川の両岸には400本も続く桜並木が4キロにもわたって咲き誇り、その河口である諏訪湖に流れ込む。その川と湖との接点に、栄養の豊富と知って白鳥たちがたくさん集まる。
花の咲くころこの横河川の下流である諏訪湖の河口の岡谷市民総合体育館のそばから逆に上流に向かって、わたしはテクテクのぼってゆく。
さくらのアーチが歩く人、一人ひとりを淡いピンクの花で包みこみ抱きかかえてくれる。日頃の憂さはどこかに消えてうっとりと豊かなこころもちにしてくれる横河川の桜。
そのさくらはいつごろ植えられたのだろうか。
横河川の桜はJRの陸橋を挟んで上流と下流に別れる。上流の桜は大正時代、大正天皇の即位を祝って(1915年ごろから)植えられたという。下流の諏訪湖側は昭和30年代(1955年)ごろから10年間植えられたという。したがって古木は100年にもなり、新しい桜も60年にもなる。市民によって、植えつづけ、営々とまもられて、この横河川の花は、大正から令和の今日まで花を咲かせてきたのである。その桜が今年も川の両岸を埋め尽くし、空に向かって大きく手を広げて延々と、河口から上流まで咲いている。
列車の通過する時間によってはピンクの桜の中を白とブルーの特急あずさが通過する姿に巡り逢う。桜並木を横切って走るブルーの特急列車は、なかなかの絵になる風景だ。
さて「令和」の年号は梅の花から取られているが、なぜ桜ではなかったのか。
西暦600年から760年のころ、「万葉集」の時代は唐に学んだ。そのころ遣唐使によってもたらされた花といえば「梅」であった。
しかし西暦800年に入り時代は奈良から京都の時代に移って平安時代になる。菅原道真は「もはや唐から学ぶものはない」と遣唐使を廃止する。そこでいよいよ日本独自の文化の発展となり、花といえば「さくら」がもてはやされる時代となった。
さくらの花は多くの歌人が和歌に詠んできた。
・ねがわくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ (西行の家集「山家集」より)
・樹皮も樹液も赤く染まり先端にこぼれた花びらの滴 (光本恵子歌集「素足」より)