短歌であるために
- 2020年11月3日
- エッセイ
短歌性を考える。
昭和十年前後、口語の自由な短歌は多くの人が模索して作った。主な見解をここに綴る。
昭和六十年に諏訪で講演した時の宮崎信義の「口語自由短歌の手引き」を参考に記してみよう。
一、前田夕暮は「新興短歌概論」で短歌的重量感のあること三十一音に近い音数すなわち等時性をもつこと。
一、土田杏村は「短歌論」に精神生活における心的に統一された二つの段落意識で(A+B)(C+D)のような二段形式でうたう。
一、石原純は「新短歌概論」の中で、短詩ではなく、短歌意識が必要だ。短歌の求心性を述べる。
一、大熊信行は「新興短歌論」で短歌は常に自在で硬化しない形式であり、時代とともに動きながら三十字前後を生きていくものと。
一、林一夫は「短歌の円環性」の中で「短歌は一本のひもの両端を結んだようなものである」、と。
一、宮崎信義はこれらに加えて「短歌の循環性と、外側から内に向かう求心性」を挙げている。
具体的に短歌を上げる。
矢代東村のうた
- われすでに恋にうみけり君もまた倦みしか電気いたづらにあかし(恋)
- 窓ちかくけだものの血の紅のざくろ花さき五月雨ふる(五月雨)
草飼稔は「一九三七年版・新短歌」の中に“姿勢”と題して二十首の短歌を掲載している。
- 氷の下に空の映しだすのはいつだろう、川はどちらへも流れてゐない
- どこからくる切なさであらう、松の花ほどの姿勢で ひたすら剃る刀を見せてゐた
光本恵子歌集第二歌集「素足」より
- なにを待つというのか胸の下がきゅーんと震え水に浮かぶ木の葉のよう
- ひと泳ぎするたびに洗われる細胞 陽にさらす裸身から水滴こぼれる
- 陽を飲みこみ汚染の街を彩る夾竹桃 たくましく私を充たせよ