好きなキノコ
- 2020年12月2日
- エッセイ
好きなキノコ
次の日は黒部ダムに行く予定であった。「明日は雨だから傘も入れて」と夫は告げ、私は折りたたみ傘も入れて二つリュックを用意した。
その日は突然やってきた。夫の垣内敏廣が亡くなる。
2020年十月二十一日の午後六時、突然、背中にきりりとした痛みで、横になりたいと叫び、横になっている間に、救急車を呼び、諏訪日赤に駆け付ける。医師と手術をするか話している間にも、血圧は下がり、いよいよ心臓が止まったのが三時間後の午後十時十七分。死因は腹部大動脈瘤破裂。享年七十九歳。
しかし、今思えば、その兆候はあった。
彼は高血圧症で加齢黄斑変性の眼病もあり、食事も今まで食べなかった大福餅やたい焼きも食べるようになる。首筋には大きな痣が広がっていた。食事ものどを通らないのか、「こんなもの食べられるか」と茶碗をひっくり返すなど、近所まで聞こえる大声で怒鳴った。そんな中でも、次々と旅の予定を立てた。明日は(十月二十二日は)黒部ダムへ、十二月には東北一週六日間の旅を予定していた。身体の老いを感じてはいたのだが、それゆえか、妻の私との旅を計画し、思い出づくりをしようとしていたのかもしれない。
小雨のなか京都の嵐山から四条を経て加茂川を渡り東山の大学の寮まで送ってくれたのは五十年前。彼との出会いは私の十八歳の夏であった。鳥取から京都の大学生になったばかりの私を、京都の町を案内してくれたのが敏廣だった。その日から八年後に結婚することになろうとは。
会社勤めをしながら、時折、油絵を描き諏訪交響楽団ではチェロを弾き、二人の娘にヴァイオリンを指導し、私の出す月刊誌「未来山脈」には怒りも交えて協力をしてくれた。パソコンも彼に教えられた。
昨年の十二月八日の東京ガーデンパレスでの「未来山脈七十周年記念大会」ではカメラマンを務めてくれた。
死の二日まえ、「未来山脈」の編集委員の三枝弓子さんから諏訪地方で採れる「じごぼうきのこ」が届いた。これは彼の大好物。さっと茹で、おろし大根で食べて上機嫌。三枝さんに礼を言っていた。すると、死の前日もそのキノコを届けてくださる。
ああ彼は好きなキノコを食べて亡くなった。最期の頃は三枝さんや未来山脈の人たちに支えられていた。