短歌は和歌である
- 2021年12月1日
- エッセイ
七世紀、西方から中国を経由して論理的な文字(漢字)が入って来ると、今まで話し言葉をその漢字を借りて表記するようになった。そこでお喋りしていた言葉(口承文学という)もふくめて、漢字の音を借りて紙面に残す作業を果たす。それらは「古事記」「日本書紀」「万葉集」とまとめられた。
出雲に近い鳥取の白兎海岸の近くで生まれた私は、隠岐の島に渡りたくて、サメをだまして、丸裸にされた白兎が大黒様に助けられた話をきいて育った。今住んでいる信州諏訪にもたくさんの民話が残る。諏訪族モリヤの逸話も諏訪神社の御柱の話もみんな、それらの古い本に書きとられた。文字として残っている。文字に表現することは素晴らしい。
その後、九世紀、京都の平安時代になると、漢字を基に「ひらがな」を発明した。それによって和歌が発達する。
その頃、短歌では「古今和歌集」が天皇の命令によりまとめられた。紀貫之は序文で「和歌は三十一文字」と記した。
京都嵐山では小倉百人一首がまとめられる。
ひらがなの発明は女性も文学に加わることとなる。「源氏物語」「枕草子」あまたの文学作品が生まれた。文学における女性の活躍の目立つ平安時代。
このことを念頭に置き、考えてみると、平安時代以前に編纂された「万葉集」の自在さはいい。三十一文字の厳密さは薄い。歌人も貴族から防人まで。防人とは東北地方から福岡まで国守りにやってきた今でいう自衛隊のおじさんだ。あのころ、玄海灘付近では、中国朝鮮半島からいつ襲ってくるやら、常に不安があった。
江戸時代になると、花鳥風月の短歌に飽き足らない歌人も現れた。仕事の歌、風刺などやや感情を率直に歌いたいと思う歌人も現れる。例えば上田秋成、良寛など。
口語自由律の表現は、明治以降、ヨーロッパから詩の導入されたころにはじまる。北原白秋、若山牧水も口語自由律で歌った。
・霞辰立つながき春日を子供らと毛毬つきつつこの日くらしつ
(良寛『蓮の露』)
・おもふひとこんといふまにうめの花けさの嵐に散初にけり
(上田秋成『つづら文』)
・君と見て一期の別れする時も ダリヤは紅しダリヤは紅し
(北原白秋『『朱欒』(ざんぼあ)』
・飛ぶ、飛ぶ、とび魚がとぶ、朝日のなかをあはれかなしきひかりとなり
(若山牧水『別離』)