角川「短歌」12月号に光本恵子の「現在をうたう」が掲載されました

「現在をうたう」

 

 

みつめて離さない黒牛の潤んだ瞳は山陰地方の耐えた生き物の眼

光本恵子第一歌集『薄氷』

 

「潤んだ瞳」は真実の眼である。

敗戦の年一九四五年鳥取県の港町赤碕(現・東伯郡琴浦町赤碕)に生まれた。大山の肥沃な国土を生かした農業と酪農でなり三つの村の要となす、日本海から水揚げされた魚を生業とする港町。その町で水揚げされた魚の仲買人の父は酒の販売から乾物物と何でもありの雑貨商(今でいうスーパーマーケット)。母と祖母はそれらの品を使っての料理屋を営んでいた。毎月旧暦の二十八日は海の荒神様の祭りに合わせて、牛市の日だった。あちこち近隣の村からおじさんたちが牛をトラックにのせて、あるいは引いて街にやって来て牛を売買する市が開かれる。高値で競り落とした馬喰たちのふところはあたたか。胴巻にたっぷりお金を詰めて、祖母、母の営む料理屋に集まる。

母は手伝いの靖ちゃんや蕗ちゃんと五十個もの火鉢を蔵から出して準備に余念がない。その頃の私は小学校から帰宅してその渦に巻き込まれていった。住み込みの人もいて大家族で育ったのも中学生まで。そんなあわただしい商家に育った私は、越境して入学の米子の高校に通うため米子市に下宿する。

死の淵を通り過ぎた闘病のあと 海に沈む茜色の炎がわたしを燃やす

光本恵子第一歌集『薄氷』

 

大学時代には、同好会「女子大短歌」に入部。このころは京都に結社のあちこちを訪ねて歩く。結局、口語自由律の宮崎信義主宰「新短歌」がぴたりと寄り添ってきた。関西学生短歌会に誘われ、「幻想派」に入会するのもこの時。同じ短歌仲間に河野裕子もいた。四年経て京都を離れたくなかったが、ふるさと鳥取で教師に収まる。
縁あって、鳥取から信州に嫁ぎ、結婚してわずか二年目に大病を患う。五年の闘病のあと、歌壇を見回すと学生時代の仲間の河野、立命の安森敏隆、京大の永田和宏らの活躍に、じっとしてはいられない心境。先輩の小野菊枝さんがタイミングよく「あなたそろそろ歌集を出しなさい」といって、十代からの光本の歌を原稿用紙にびっしり手書きで送ってくれた。入院中つぎつぎ沸くように詠んだ短歌を加えて出版したのが第一歌集の『薄氷』。これを機に短歌結社「未来山脈」を立ち上げたのが四十歳。

七台の自動車連ね未来山脈を行く口語歌の旗きらめかせて

光本恵子歌集「おんなを染めていく』

 

この歌は、まだ「新短歌」と言って活動していたころ、諏訪で短歌会をした。その足で七台の車を連ねて、諏訪からアルプス連山の見える松本経由、安曇野まで歌会に出かける。その時思った。いつか私が諏訪で結社を作ることがあれば「未来山脈」だと。アルプスの山々から海に向かって、全国に広がってゆくだろう口語の歌を描きつつ。

彼岸花赤く赤く空に向かうシタマガリとおそれた花いま天に昇らんと

時が変われば、考え方も変わる。口語自由律は戦前の自由のない時代は悪者呼ばわりされた。心に含むシュールな歌(比喩をつかうとか、抽象的な歌とか)で表現することも多かった。あれから七十五年。いま若者の歌は口語歌が多い。最近は、ジェンダー問題もある。そんな中、短歌はいつも、自由に自在に今を歌える場でありたい。

 

角川「短歌」12月号掲載 光本恵子の「現在をうたう」