対立軸は作らない

短歌は文語か口語か、律においては五七五七七か自由律かで分類すると次のようになる。
一、文語定型
二、文語自由(波長のうた)
三、口語定型
四、口語自由律
しかし、このように分類すること自体、対立軸を作ろうとする人たちの思いであり、もっと柔軟に考えたほうがよい。
私の生まれた一九四五年は第二次世界大戦が終わりを告げた年。それまで戦時下にあって、口語で自由律などと言えば、それだけで、「戦禍の時代、自由などとんでもない」と軍部からはお叱りを受けた。
敗戦となって自由を得た今、どのような形で短歌を詠んでも、誰も叱ったりしない。それでも、五七五七七が絶対と思っている人も多い。是は平安時代の初期に「古今和歌集」の紀貫之が「和歌は三十一みそひともじで詠もう」と序文で書いた、それだけのこと。そのうえ勅撰和歌集は天皇の命令によって編纂され貴族だけのものであった。
それ以前の「古事記」「万葉集」(上代歌謡)は、天皇の隣に防人(庶民)の歌があり(身分は問わない)。五七五七七から、はみ出した長歌、短歌、漢詩、その他、様々な長きもの短いものがあったのである。

明治期、「心の花」を主宰し、多くの門人を出した佐佐木信綱は、短歌の入門書で、
―― 歌は必然の性質として、現在の人のこころを歌ふのであるから、今の人が今の心を訴へることのできないやうでは歌ではない。従って、今の人は口語で歌ふがよいと云ふ考も成り得る ――
と人の心は口語で歌うのがふさわしいと述べた。
ともあれ、大体三十字前後の文字数で、リズムを持ち、思いをつぶやく。それで充分、短歌である。また文語と言われた言語も、現代語として通じる言葉(今に生きている文語)は、使えばよい。
従って、仮に、分類してみたが、そんな垣根はないのである。

自分の思いを、自分のことばで三十字前後にリズムを込めて紡ぐ。これで十分、短歌である。どんな詠み方であっても、リズムは重要だ。
つぎに「短歌研究」一月号の作品から

・眠っても眠っても眠いと歎きゐし亡き人の秋わが秋となる(「木々の沈黙」馬場あき子)
・咳をしたらひとりひとりのうたがいがあらわれてひとりにはなれない(「レペゼンpoet」野口あや子)