口語短歌の歴史
- 2022年7月1日
- エッセイ
一・江戸時代
※小沢蘆庵と上田秋成
・君のため木曽の山雪わけてまたいぬらむか木曽の山道
(小沢蘆庵『六帖詠草』から)
・霞立つながき春日を子供らと毛鞠つきつつこの日くらしつ
(良寛『蓮の露』から)
・おもふ人こんというまに梅の花けさの嵐に散初めけり
(上田秋成『つづら文』から)
近世には、短歌にもさまざまな論が起こるのであるが、終りの藩士であった小沢蘆庵(一七二三~一八〇一年)は「古今和歌集」の序に「ただごと歌」とあることから、歌の自然体、日常詠を主張した。
上田秋成(一七三四=一八〇九年)はどうか。秋成といえば、和歌というより怪奇小説『雨月物語』『春雨物語』の白話小説で名高い。晩年に著した『胆大小心録』という小説、随想集の多い秋成ではあるが、口語発想の短歌も詠んだ。
二・明治の口語歌
1,文明開化の明治
※林甕臣
明治の短歌は、まだ実験的な試みの段階であった。小説に「言文一致」の運動があったように、短歌にも言葉と歌を現代の口語でやろうとする人が現れる。
まず江戸生まれの歌人・林甕臣(一八四六~一九二二年)は、本居宣長の下で学んだ国学者・林国雄の孫であり、明示二十一年に「東洋学芸雑誌」に「言文一致歌」を発表した。
・ギラギラト。ヤブレ障子ニ。月サエテ。風ハヒウヒウ。狐キャンキャン。
(林甕臣)
※青山霞村と西出朝風
青山霞村の『池塘集』(明治三十九年)が世にでた。石川県生まれの西出朝風(一八八四~一九四三年)は、十八歳から口語歌を作り「新短歌と新俳句」(大正三年)を出し、口語歌の先駆的な役割を果たす。
・湯上りのつまがそら見るかどぐちに秋の日暮れの竹の葉が鳴る
(西出朝風)
・手からぬけ我が静脈を青く這ひ蛍は落ちた草の根に
(青山霞村)
今詠めばおかしいような歌も、伝統を何とか崩そうとする実権や悶えが感じられ、形は定形の五七五七七だが、口語歌の創世記のなりふり構わぬ一途さが心をうつ。