原 三千代のうた

三十年も前のこと。私は青森で賞を受けたことがあった。その折、原三千代さんにお会いした。

七十代の美千代さんは青森市の学校に勤務しておられた。着物姿の美千代さんと、夫で歌人の川崎奥羽男氏のお二人が食事の席にきてくださった。そこで出されたお吸い物のなかで「じゅんさい」が泳いでいた。「まあ、原三千代さんはじゅんさいのような方ね」と私は叫んでいた。着物の下の白いたび、その足もとのなんと楚々としていることか、小さな顔を支える首筋も白い足首も長く伸びて、すっとしたままの原三千代さんは今にも消えてしまうかのように痩せて色白で少女のように夫に齊藤喜和子さんに何かわがままを言っていた。

『一九三七年版新短歌』の“くらげの歌”二十一首のなかから

  • ・音をなくした波の よせてもみよ 宮殿ほどに冷たく 漁村のまどは高し
  • ・晩餐の途中に雨こまかくふつて 砂の上 銀貨になった
  • ・行けば行くほどの深夜 海よ海よ 皮膚にトルコの海岸がうつる

海の光景にはじゃいでいる様子が見えるようだ。潮の香り、広くどこまでも続く海原、海は外国の匂いがする。浜辺で童心に戻った作者がいる。

二〇〇二年に出版された原三千代歌集『なごり雪』からみてゆく。

  • ・いつめぐり会ったかは忘れた 海近い病床にその人とともにいる

原三千代は、大正二年九月十三日に山梨県北巨摩郡武川村牧原の長沢美津枝として生まれる。昭和九年の三月に実践女子専門学校を出ると教師についた。実践の国文科時代に、藤井千鶴子、太田静子らと口語自由律歌の作歌を始める。明治文学研究会で川崎を知り昭和十二年に結婚。十三年川崎と共に満州に渡り教師をしながら「女性満州」編集、戦後は、宮崎信義主宰の「新短歌」に参加。平行して川崎の主宰する「出帆旗」や「短歌開拓」、「波止場」に協力していた。