短歌と音楽性 ~ 自由律短歌の作歌法について

短歌と音楽性 ~ 自由律短歌の作歌法について

吉田匡希

短歌という文学は非常に音楽的な要素を持つものだ。この論はそれらを踏まえた上で作歌と作詞作曲を照らし合わせてより良い作歌を目指すことを目的とする。
まず、作詞作曲には曲が先か、歌詞が先かという概念がある。どちらを先に作るか、これは作詞家、作曲家によってやりやすい方法がとられるのであろう。その上で申し上げると既成の短歌というのは基本的に曲先である。五七五七七というリズムが先にあって、ここにおのおのが歌詞をつけていく。これが定型短歌だ。
しかしながら自由律短歌というのはこの定型を持たない。つまり自由律短歌は歌詞先の文学。ここで非常に重要になってくるのが曲の概念である。通常の定型短歌の作歌に慣れているとしばしば歌詞を作った段階で作業を終えてしまう、ということが起こりうる。定型歌人が作詞家だとしたら自由律歌人は作詞家である上に作曲家でなくて はならない。リズムが大切。自分でリズムをとる。
この条件を高度に満たしているのが光本恵子である。光本恵子は自身の作歌法について

・基本の文字数(二十八字~四十字程度)におさめること
・十回、口に出してみよう

このふたつを提唱している。音楽は長すぎても短すぎてもいけない。故に自由律短歌に音楽としての要素を付与するにはあくまでもある程度の幅を守る必要があるのだ。さらに、この「十回口に出す」ということこそ作曲の作業にほかならない。口に出してみて、引っかかる場所を直していく。 詞を曲に馴染ませて気持ちがいいリズムに 変えていく。これを怠ってしまい歌詞だけ作って満足してしまうことこそが自由律短歌が伸び悩む原因のひとつではないかと私は考える。

自由律短歌はこれからもっと伸びていく文学だと信じる。では誰が伸ばすのか、それは現在自由律短歌を詠み繋いでいるわたしたちに他ならない。わたしたちに必要なことは停滞せず、よりよい作歌法を検討し進化しつつ継続していくことだ。その一歩としてこの論においては光本恵子の作歌法について。なぜ。このような方法を採るのかの部分を多くの人が理解できるように解釈してみたものである。よりよい自由律短歌がより多くの人から紡ぎ出されるよう願っている。