大正時代(一九一○年代)のころすでに口語自由律歌の挑戦が始まっていた
- 2025年5月29日
- エッセイ
大正時代(一九一○年代)のころすでに口語自由律歌の挑戦が始まっていた
光本恵子
口語化への試作の時代
土岐善麿は早稲田時代、島村抱月に師事した。美学の専門でドイツ、イギリス留学から帰国したばかりの自由な思想を持つ教授であった抱月に学んだ土岐善麿と同窓の北原白秋、若山牧水は、抱月から自然主義を学びその影響を受けているといわれている。坪内逍遥に次期総長と期待された島村抱月は、結局、松井須磨子と愛の果てに若くして病死し、大学の期待には添えなかったが、演劇界に一矢を放っただけでなく、多くのロマンを持った弟子を育てたといえよう。
君と見て一期の別れする時も ダリアは紅しダリアは紅し
(北原白秋「朱榮」)
飛ぶ、飛ぶ、とび魚がとぶ、朝日のなかをあはれかなしきひかりとなり
(若山牧水「別離」)
労働は気まぐれならんや
労働は気まぐれならんや
地の底の闇に。
(土岐善麿 大正二年「佇みて」から)
土岐善麿は啄木との約束を果たせなかった代わりに大正二年「生活と藝術」を創刊出版する。そこにはさまざまの短歌の挑戦があった。学生時代に備わった自然主義傾向から、啄木などとの出会いによって社会主義傾向を強めて、短歌の近代化を主張した。大正四年、誌上で論争をする。
アララギ派の歌人、斎藤茂吉と島木赤彦は精神主義的で古典主義を唱え、一字一句の技巧や内へこもる歌を詠んでいく。善麿の自由な気風の歌を 「おおざっぱ」「報告歌」と非難した。
それに対抗して善麿は「現代に生きる命の歌を歌うべきであり、生活の現実を自由に詠いたい」と反論した。さらに「短歌は口語で分かり易くなくてはならない」と迫るのである。
大正十三年に刊行された「日光」に集まったのは土岐善麿のほか矢代東村、北原白秋、前田夕暮、米田雄郎、石原純、釋迢空、木下利玄、吉植庄亮、小泉千樫、などであった。ついには白秋の色が濃くなり、三十八冊五年間をもって終刊となった。しかし、当時の「アララギ」の蔓延する空気を打破したいという、自由な気風を求めるエネルギッシュな歌人の意欲の現われでもあった。