前田夕暮の「詩歌」は定型律から口語歌へ

前田夕暮の「詩歌」は定型律から口語歌へ

昭和四年(一九二九年)十一月二十九日、四人の歌人は、朝日新聞の飛行機に乗った。土岐善麿、斎藤茂吉、吉植庄亮、前田夕暮の四人は東京上空を飛び、空中競詠を試みる。その衝撃は今までの文語定型では表しきれるものではなかった。その折の短歌を、「四歌人空の競詠」として発表したのである。

・いきなり窓へ太陽が飛び込む、銀翼の左から下から右から

(土岐善麿)

・一瞬一瞬ひろがる展望の正面から迫る富士の雪の弾力だ

(土岐善麿)

このときから、善麿は口語自由律短歌に変わっていくのである。

・自然がずんずん体の中を通過する。山、山、山!

(前田夕暮)

前田夕暮の短歌は植物や小さな生物、子供に対して骨太なやさしさが感じられる。『原生林』までは定型短歌が多いが、昭和四年以降は口語で自由律短歌。

次の歌集『水源地帯』(昭和七年刊・白日社)からは口語自由律短歌になっている。

・夜、眠ろうとする私の旅愁のなか ― 奥入瀬が青くながれはじめる

・あけつぱなしの手は寂しくてならぬ。青空よ、染み込め

(前田夕暮「水源地帯」)

この日以来、前田夕暮は、短歌の形にも今までの形にこだわらぬ、もやもやしていた気分を一掃して、文語定型(五七五七七)の世界から脱出を計るのである。
結社誌「詩歌」の会員を率いて文語定型から口語自由律と代わっていった。
宮崎信義は、彦根中学時代に平井乙麿の勧めで短歌一五首を作成。昭和六年には横浜専門学校に進み、前田夕暮の主宰する白日社「詩歌」へ入社。「詩歌」十二月号には

・九月の朝の太陽が生きることの歓びを味合わせて黒光りにみがかれた靴

(宮崎信義十八歳の歌)

矢代東村の選で初めて作品五首が載った。