やさしいことば
- 2025年11月1日
- エッセイ
最近NHKラジオから聞こえてくる「やさしいことばニュース」にわたしは感動をおぼえながら聞き入っている。
難しいことを易しく説き書くことは大変な能力だ。物それは事をよく理解していなければできない。
近頃は、簡単に、スマホが応えてくれて、判ったように思い込んでいることが多い。
実際には少しも解っていなかったとか、曖昧にわかった振りをしていたことに気づかされるのである。
生きていくことは「不思議」が増えていくことであり、特別にわたしは物覚えが悪い。ものごとを記憶するのに、理屈をつけないと憶えることができない。受験期のころからそうであった。丸暗記ができないのだ。結局時間をかけて時代背景を知るとか、理科も実験してなるほどと思わなければ脳裏に刻まれない。
ようやく納得すると後は決して忘れない。
ところで理解するということは、事実を突き止めることとは限らない。想像力と推理力を働かせて考えるのである。言葉や文章には限界があり、それを理解するにも、その裏や横を考えてみなければならない。また、思考の底に愛情を持っていなければ互いの意思の疎通を欠くことにもなる。 「ことば」だけに頼ろうとするとしばしば誤解を生む。
日本人にとって「うた」は心の叫びであり。人の死を悲しみ、自然との戦いであり、好きな異性への愛情の吐露であり、別れの切なさ、憎しみ、 喜びであった。内面の憂悶を吐きだすこともある。死んでいくものへの鎮魂の折りでもある。
時折、自分だけ吐き出して満足する種類のうたもあっていい。そのようなときに、喩え話で広がりを見せる。
本質を、ぼかすことによって憎しみ悲しみは表面に出ない。作者の本音は裏地となって、表地は華やかそうな歌もある。
- 海を越え山越えて菜の花を飛ぶ蝶は母の化身か
- 砂が跳ぶ水がとぶ蝶が飛ぶゆっくりゆっくり廻る白い風車
(光本恵子第六歌集「蝶になった母」)