木曽義仲をうたう
- 2026年6月1日
- エッセイ
木曽義仲をうたう
光本恵子
・義仲の墓に参る徳恩寺 信州勢を一つにし北へ北へと進撃したころ偲ぶ
・木曽の山のなか探し訪ねてようやく義仲の墓 巴御前の墓
・義仲の奇襲 平家の大群は倶利伽羅谷に転げ落ち人馬谷を埋める
・白旗かかげ風雲児 五万騎率い京都の地へ一一八三年七月のこと
・信州から北陸経て都へ上りつめた木曽義仲 裏切られ数ヶ月の天下
・木曽の自然児旭将軍義仲 信濃から天下をと都までの道程
・京で天下をとった木曽義仲 山猿といわれ卑しめられても
・木曽殿に最後の戦さしてみせん 恋人巴の願い空しく義仲最期の粟津の浜
義仲は久寿一年(一一五四) 生まれ、源義賢の息子。義朝の息子の頼朝とは従兄弟関係になる。 父が一門の義平に打たれた後、木曽の中原兼遠に養われた、義仲二歳のこと。兼遠の息子の今井四郎兼平とは乳母子として育つ。義仲は北陸の倶利伽羅谷の戦で多くの平家を討ち勇んで都に上洛した。
京の都では寿永二年(一一八三)七月の義仲の上洛によって都を追われた平家が、西の国、兵庫から九州の地まで逃げ延びていた。後白河法皇の息子の高倉天皇は清盛の娘・建礼門院徳子と結婚、その間に生まれたのが安徳天皇。九州をくるくる落ちていった末に文治元年(一一八五)に壇ノ浦で入水、八歳であった。
すでに義仲は、安徳天皇入水の一年前に滋賀県で亡くなる。三十一歳という若さであった。京の都を窮した義仲は山吹を都に残し、恋人・巴には 「最後の戦に女を伴っていたといわれたらみっともない」と近江で帰す。その直後に、北陸へと落ちていく。その途中、琵琶湖畔の近江の粟津で薄氷の張るぬかるんだ砂地に足をとられ果てたのである。(この近くに義仲寺が今もある)。寿永三年 (一一八四)一月二十日のこと。
上洛してわずか五ヵ月、天下をとったとはいいがたい短い将軍であった。