短歌性とは
- 2013年5月24日
- エッセイ
短歌性とは
光本恵子
自然がずんずん体の中を通過するーー山、山、山 (前田夕暮「四歌人空の競詠」)
いきなり窓に太陽が飛び込む、銀翼の左から下から右から
(土岐善麿「四歌人空の競詠」)
ゆるぶってやれゆすぶってやれ 木だって人間だって青い風が好きだ
(宮崎信義『急行列車』)
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫って行っては呉れぬか
(河野裕子「幻想派」1号「薔薇盗人」から後に『森のやうに獣のやうに』にも)
これらの歌は口語自由律の歌である。
私たちは短歌を作っている。
口語自由律短歌を詠んでいるのであるが、詩ではなく短歌であることをしっかり意識しなければならない。
ここに上げた歌には短歌の持つエネルギーが感じられる。それは五七五七七では表現できない力があるのだ。
いまわたしは戦前の雑誌を読みひろげている。昭和の初期は口語自由律短歌の全盛期になろうとする時代であった。前田夕暮が朝日新聞の飛行機にはじめて乗って神奈川県の上空を飛び、そのあまりの感動で定型短歌では収まりきれず、歌は自由だと叫び「詩歌」の会員もろとも口語自由律短歌に移った。ちょうどその頃、宮崎信義は「詩歌」に入会したのであった。
河野裕子の歌はわたしの学生時代、ともに「幻想派」と結成して歌を作っていたときの、昭和四十年代の作品だ。
昭和五年二月号の大熊信行主宰の短歌誌「まるめろ」で浦野敬は短歌性とは何かを書いている。読みながらわたしはつぎのように考えた。
「短歌性とは一つの作品が短歌であるための基本的な先行条件である。この前提を通じて内容をまず打ち出し、詠みたいことを書き出す。その後、音律リズムが組織され、求心的に内面に迫り、内面的な均衡を保つ。そこで初めて短歌になる。短歌性とはこの抽象的な言い方ではあるが、求心が重要な点である。ばらばらにならない。ことばが凝縮される。ある核に向かってまとまる。対立的、並列的、羅列では短詩となってしまう。短歌の求心性は結句によっても、上句によっても、いずれかを締める事により求心性を打ち出せるのではないか。
上下句の緊密性や一息で歌うものは一息の完了性を持たねばならない。先に挙げた歌は実に短歌性に富んでいて想いがぎゅっとつまっている。