山崎豊子について
- 2013年10月31日
- エッセイ
山崎豊子さんが二〇一三年九月二九日に亡くなった。
大正十四年生まれだから八十八歳ということ。私の母と同じ豊子という名が好きだった。山崎さんといえば、京都女子大(旧・京都女専)の国文学科のわたしの大先輩で、学友も卒業すると、山崎さんの秘書になった。まもなく、盗作問題が持ち上がった。「秘書が資料を集めた際に起った手違いであると弁明した」ということだが、そのとき友の困った顔が浮かんだものだ。わたし自身もいろいろ昔の資料を基に「口語自由律の問題点」を探り記すことが多い日々。戦前の短歌作者の資料をあさり、書き写したりしながら、そんなとき、山崎豊子の顔がちらりとよぎるのである。やはり論文的なものだから資料の出所をしっかり書くようにしている。
ところで山崎豊子は江戸時代の千石船(北前船、弁才船)、北海道から大阪堺まで運ばれた昆布屋の老舗、「小倉屋山本」に生まれた。初期の作は苦労して山本を持ちこたえた生家の話を小説に表現した大阪船場の『暖簾』。
わたしの学生時代、一九六四年ごろ「サンダー毎日」に『白い巨塔』が連載されていた。週刊誌を買う金はなく、大阪の叔母の家に訪ねると「サンデー毎日」があってむさぼり読んだおぼえがある。その後も、さまざまな週刊誌につぎつぎ連載された、『華麗なる一族』や『沈まぬ太陽』『不毛地帯』『大地の子』そして『運命の人』でも長い連載で読みきらぬうちに、ドラマ化され、映像で見ることが多かった。
そういえば、あのころ松本清張もつぎつぎ社会派小説を書いていた。一九八四年に松本清張との対談で次のように話したという。
「小説ほど面白いものはないですね。人間ドラマですものね。ですから私の場合、素材に商社を持ってこようが、医学界を持ってこようが、金融界を持ってこようが、やっぱり人間ドラマなんです。人間が人間ドラマを書けるということは、こんな楽しい、血もしたたるようなことないですよ」(朝日新聞社「AERA 」2013年10月14日号)とある。
徹底した取材で書き上げた社会小説はさまざまな摩擦を起こしたらしい。恩師であり新潮社の名物編集者・斎藤十一の葬儀の席で触れた話。(「週刊新潮」十月十日号)
時折、疲れ果てた山崎は齋藤を訪ね「もう書くことをやめる」とペンを投げ出そうとした。齋藤の返事は、
「芸能人には引退があるが、芸術家はない、書きながら柩に入るのが作家だ」といったという。『作家の使命 私の戦後』
このことばを私も肝に銘じて書き続けたい。もう一度読み直したいと、改めて山崎豊子の本を注文したところである。
“作家は棺に入るまで書き続けろ。書くのをやめたら、お前は終わりだ”と諭されて、再び書き始めるんです。彼女の人生は、その繰り返しでした」(山崎さんの知人)