宮崎信義生誕百年を記念して
- 2014年1月17日
- エッセイ
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宮崎信義生誕百年となった。宮崎は口語自由律短歌の「中興の祖」とってよい。
現在光本恵子の主宰する「未来山脈」誌は宮崎の意思を継承して口語自由律歌を標榜する雑誌。そこで「未来山脈」一月号は宮崎信義の生誕百年の特集号とした。
宮崎は明治、大正、そして昭和の初期に紆余曲折しつつ完成を見た口語短歌ではあったが、戦争によって多くの口語歌人が自由に自分の思いを詠むことができなり、多くの歌人が古い文語定型歌に回避した。が、
そんな中、戦争であちこち散らばっていた戦死を免れた人に呼びかけ、戦争から帰還した人たちとともに京都で口語歌人の集団、「新短歌」を宮崎信義を中心に四人で結成したのが昭和二十四年。
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話はかわるが、今回の「特定秘密保護法」は国会審議もあまりされないまま、二〇一三年十二月六日に成立、同年十二月十三日に公布されたが、通過してしまったことに、わたしは恐れを抱いている。それはあの口語自由律歌が壊滅的になったのは、一九三〇年ごろからの戦争のために、自由に短歌や文学が語れなくなっ時代にもどる心配を感じるからである。あの戦争は政治家や軍人などが上のほうで決定し、一般国民は何も知らされないままに戦争へと突入した。にもかかわらず、一番先に戦争に借り出されるのは最も弱い一般大衆である。特に敗戦の色が濃くなった昭和十八年、ごろから、教師は小学校を出たばかりの子どもに勧めて「日本のために、中国に開拓や義勇軍としていくように」と勧められたのだ。その後敗戦となって、戦争で父を失ったり、戦争孤児として中国に残された子供たち。小学校を出たばかりの青少年に教師が勧めた義勇軍を含む満州開拓移民の総数は二十七万人とも、三十二万人ともいわれ、極寒の満州北部などにやられた。敗戦で帰還できたのは半数にも満たなかった。
戦争中は国民の士気を高めるために、敗戦色が濃いときも新聞は「勝っている勝ってる」と書き続けなければならなかった。
敗戦から六十八年。戦後、日本は平和になった。自在に短歌も詠め、新聞にしても、誰も新聞は真実が書かれていると思っている。国の動きは秘密裏に決めてもらっては困るのだ。あんな時代が再び来てはならない。
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わたしが短歌をやりたいと宮崎信義のところに弟子入りしたのは、一九六四年、大学一年生の夏であった。その年は東京オリンピックが開催された年で、今思い起こせば、新幹線ができ、高速道路が整備されたバブルの始まりを予感するように街が活気付いていた。
鳥取の片田舎から京都の大学に入学したばかりのわたしは、大学の短歌部に入会し、あちこちの短歌の師を訪ねてさまよっていた。そんな時、誰にもわかる易しく詠う口語自由律歌に出会い、その率直さに「わたしの創りたい短歌はこれだ」とおもった。当時の宮崎は福知山駅から神戸の駅長に変わったころ。でんと構えた恰幅のよい身体は歌人というより、社長然としてみえたものだ。当時は学生短歌会と称して、面白半分に短歌をいじっていた。
京都大、立命館大などの学生と京都女子大学の学生が一体となって短歌誌「幻想派」を出したりした。そのうち、教師になってふるさと鳥取に帰郷、結婚して信州の農家の長男に嫁ぎ、その間は短歌作りを忘れていた。まもなくストレスから病に罹る。癌が転移し、もう生きて退院できないといわれたわたしは、奇跡的に快復。このままでは死ねないと、学生時代からの短歌がむらむらと湧いてきた。それからの口語短歌へ埋没するほどの熱い日々。人生の折り返し点だと四十歳を機に雑誌「未来山脈」を立ち上げた。その後、平成十四年(二〇〇二年)、宮崎信義九十歳のとき、「新短歌」と「未来山脈」は合併した。
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宮崎信義は一九一二年、明治四十五年二月二十四日に、滋賀県の母の里で生まれた。警察官であった父は仕事中亡くなった。裁縫の教師をしながら宮崎信義を大学まで出した母。彦根中学時代に前田夕暮の主宰する「詩歌」に入会したのが昭和六年。それから一筋にぶれることなく、九十六歳と十ヶ月で亡くなるまで、口語の短歌を詠み続けた。そこで口語短歌の「中興の祖」なのである。生涯に十三冊の歌集を出した。
そこで「未来山脈」一月号を「宮崎信義生誕百年記念号」として特集を組んだ。
執筆者は65名に及ぶ140ページの特集号となった。主な執筆者を記しておく。
梓 志乃 綾部芳光 池本一郎 逸見喜久雄 沖ななも 奥村晃作 押本昌幸 香川 ヒサ 川崎勝信 北尾 勲 木村草弥 栗明純生 小高 賢 小西久二郎 小宮山久子 佐田 毅 佐田公子 高島静子 高旨清美 田島邦彦 棚木恒寿 伝田幸子 内藤 明 永田和宏 中野照子 林田恒浩 疋田和男 福田龍生 藤原光顕 藤原龍一郎 穂村 弘 真中朋久 水野昌雄 三井 修 御供平佶 宮 章子 森本 平 安田純生 安森敏隆 山口利春 山村泰彦 山本 司 吉川宏志 吉田秋陽(歌壇四十四名)