ふたたび柳原白蓮について
- 2014年6月26日
- エッセイ
1.
柳原白蓮についてはポエムの部屋で何回か書いてきた。NHKの朝のドラマ「花子とアン」の仲間由紀恵の演じる柳原白蓮。とても人気はある。今回はその白蓮について短歌と解説を述べてみたい。
わが浄土はらからもたぬ楽園に君を加へて三人住まばや
われにかつてあたへられたる日のごとく子等がためするひなまつりかな
(柳原燁子歌集『紫の梅』大正十四年聚芳閣刊より)
この歌は宮崎龍介との間に生まれた男児・香織のためにひな祭りができる喜びの歌だ。
白蓮にとって今までの死をもいとわない自身の個を通した苦しい恋愛事件を想うと、晴れて愛する人の子を産み、愛する人と共に暮らせる喜び、子のために「ひなまつり」ができる。幼い日の自分が、侯爵の娘とした育った頃を思い出して微笑んでいる歌でもある。
最初の歌は宮崎龍介と、息子香織と白蓮の三人で暮らせるものならと、詠んでいる。それほど此処にたどり着くまでには、大変な思いを乗り越えねばならなかった。
白蓮の本名は燁子。明治十八年(一八八五年)に侯爵の柳原前光と芸者の間に生まれ、京都の北小路家の養女となり、十五歳で資武と結婚。一児をもうけるが破局となり、息子(この男性は後に香道の師となって宇治に住んだ)をおいて、柳原家に戻る。出戻り燁子はつらい仕打ちを受ける。すでに父は亡く、生まれてすぐ里子に出された乳母の品川の海鮮問屋の家に走ったこともある。こののち、東洋英和女学校に入学し、キリスト教に触れ、友に翻訳家の村岡花子がいて、彼女の影響を受けた。このころ和歌を佐佐木信綱に師事する。楽しく学んでいる頃、突然、兄・義光夫婦の勧めにより、しぶしぶ五十二歳の筑紫の石炭王の伊藤伝右衛門に嫁ぐ。白蓮二十七歳であった。親子ほどの年齢差で互いに再婚同士。伝右衛門は燁子に、文学サロンにしていいよと、博多と別府にあかがね御殿を与えるのである。
しかし、燁子〔白蓮〕は満足しない。東洋英和で学んだ精神と親友・村岡花子から受けた「女性でも自分の意志を貫く。真に人間の尊厳を持って暮らしたい」、という意思。どんなに立派な家を与えられても、愛がなければただの籠の鳥ではないか、と感じるのである。明治大正時代は、いったん結婚した相手に不足があるからと、妻が他の男性と密通することは赦されない時代であった。そんな時代に、燁子は自分が書いた戯曲を上演したいと、東京からやってきた宮崎龍介に、恋を仕掛けるのだ。
「籠の中の鳥である私を自由の身にしてほしい。」と懇願する。二人の愛は成就するが、それは大変な戦いであった。大阪朝日新聞を見方に付けた宮崎と、大阪毎日新聞を見方にした伊藤伝衛門がわ。しかし暫くして伊藤が降りる。燁子は大正天皇の従弟であり、宮崎龍介は、東京帝国大での社会主義者でもあった。伝衛門は石炭王とは言われても、いろいろ従業員を搾取している。あちこち突っ込まれると会社も危い「勝手にしろ」というわけである。しかし、柳原家が燁子をすんなり受け入れるはずはない。そこに関東大震災が起った。
ゆりかへしまたゆりかへす地ひびきに兢々として夜もいねられず
門番の産婦労はりその子抱きて火の雨の中を人波分くる
柳原燁子歌集『紫の梅』(大正十四年聚芳閣刊)この歌は宮崎龍介との間に生まれた男児・香織(大正十年に出産か)を連れて、黒髪を剃られ、あちこちに隠れ住まねばならなかったころの歌である。やっと九州(筑紫)から、京都へ、京都から東京に帰るとまもなく、大正十二年の関東大震災に遭う。実家であるはずの柳原家の人たちは「家の恥」として、助けることもしなかったが、宮崎家の人は「おにぎり」を差し入れてくれて親切だった。この震災を機に、燁子(白蓮)は、筑紫の炭鉱王の伊藤伝衛門と離縁することができ、龍介と正式に所帯を持つことが叶った。が、龍介は喀血して病んでいた。それでも燁子は、真実の愛に出会えた喜びで嬉々として、夫を看病し、精力的に小説や短歌を作り、仕事をした。愛する人の子を産み、愛する人と共に暮らせる喜びのなかで、子のために「ひなまつり」ができる幸せを噛みしめた。かつて自分自身が侯爵の娘として育った頃を思い出すのであった。
白蓮は愛する人の子を宿してどんなに嬉しかったことか。ところが良いことはつづかない。最愛の子・香織は、早稲田の学生のとき学徒兵として召集され、戦死してしまう。
英霊の生きてかへるがありといふ子の骨壷よ振れば音する
( 「悲母」香織・昭和二十年八月十一日戦死歌集『地平線』昭和三十一年ことたま社刊より)
前置きが長くなったが、柳原白蓮の一生をざっと語っておく。
2.
白蓮の本名は燁子。明治十八年(一八八五年)に華族で侯爵の、柳原前光と芸者の間に生まれ、柳原家から品川の魚問屋に里子に出された後、京都の北小路家の養女となり、十五歳で北小路資武と結婚。一児をもうけるが破局となり、息子をおいて、東京の柳原家に戻る。この後、二十四歳で東洋英和女学校に入学し、読書しキリスト教に触れた。友人に翻訳家の村岡花子(山梨県出身)がいる。その影響を強く受けたようだ。このころ和歌を佐佐木信綱に師事した。この歌集や、戯曲『指鬘外道』の表紙をめくると、口絵には竹久夢二の絵。旧約聖書の箇所らしき絵はサロメ (ヘロディアの娘)想起する。キリスト教から学んだ個性を主張する白蓮の強い気持ちは分かるが、自己愛のつよい女性でもあったことがうかがえるのである。
出戻りの身では肩身もせまく、兄・義光夫婦の勧めもあって白蓮二十七歳の時、五十二歳の石炭王の伊藤伝衛門に嫁ぐ。親子ほどの年齢差ではあるが互いに再婚同士。東京から九州まで嫁ぐというのは、伝衛門の経営する学校の校長になれるという約束があったというが。実際は、その学校の設立には確かに伝衛門の息がかかっていたが、すでに伝衛門の手から離れていた。それでも伝衛門は燁子に尽くしている。自由にさせ、文学サロンのような場として博多と別府のあかがね御殿。飯塚市の幸袋の御殿はそれを物語るようなすばらしい家を与えた。
このあたりのことは柳原燁子小説集『荊棘の實』(昭和三年新潮社刊)に名を変えて小説風に自身のことを書いている。この小説は、店頭に並んでまもなく、柳原家は回収したらしい、筆者は運よく市場に出まわったこの書を古書店で購入することができた。
3.
もう二十年も前になるが、筆者は小倉からバスで遠賀川の岸辺に、広大な土地に立つその家を訪ねた。和歌や小説や、宮崎龍介に便りを認めた部屋は、川のほとりの一番眺めのいい場所。明治、大正にすでに水洗トイレで、歩けば板はきゅきゅと鳴いた。壁は錦糸がはめ込まれていた。
飯塚市といえば「三池炭鉱の月が出た:」で有名な炭鉱地帯だ。
この家の近くには麻生家もあって、明治大正期に石炭で栄えた面影が残る。筆者が訪ねたころは、多くのボタ山はすでに、掘り起こされた場所に埋められ、少し面影が残る程度。
田川の家を見学した後は、福岡市に足を向けた。戦火で焼けていたとは分かっていたが博多のあかがね御殿跡を訪ねた。いま銀行などの立ち並ぶ福岡市の中心街に変わっていた。
功光誕生の半年後、養母・久子の提案で北小路家縁の京都へ一家で引っ越す事となる。まったく友人の居ない京都での生活は、子の養育は久子に取り上げられ、外で子供のように遊びながら家で女中に手を付ける夫とは夫婦の愛情も無く、燁子は孤独を深めるばかりであった。結婚から5年後、燁子の訴えにより事情を知った柳原家と話合いが持たれ、1905年(明治38年)、子供は残す条件[2]で離婚が成立し、20歳で実家に戻った。
幽閉生活と女学校入学
東京に戻った燁子は「出戻り」として柳原家本邸へ入れてもらえず、母・初子の隠居所で監督下に置かれ、門の外に一歩も出る事のない幽閉同然の生活となる。挨拶以外にほとんど誰とも口をきかない生活の中、姉・信子の計らいで古典や小説を差し入れてもらい、ひたすら読書に明け暮れる日々が4年間続いた。その間、再び燁子の意向と関わりなく縁談が進められ、結納の日取りまで決められるが、燁子は家を飛び出し、しかし、乳母の増山くには燁子の幽閉中に死去していた。家出した燁子を信子が庇い、兄・義光夫妻の元に預けられる。1908年(明治41年)、兄嫁・花子の家庭教師が卒業生であった縁から、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に23歳で編入学し、寄宿舎生活をおくる事となる。この頃、信子の紹介で佐佐木信綱主催である短歌の竹柏会に入門する。最初の結婚で華族女学校の中退を余儀なくされた燁子には、再び学ぶことができる幸せな学園生活であった。女学校ではずっと年下の生徒達とも打ち解け、中でも後に翻訳者となる村岡花子とは親交を深め、花子に信綱を紹介している。また、慈善事業に関心を持つなど見聞を広めた。1910年(明治43年)3月、東洋英和女学校を卒業。