柳原白蓮について(Ⅱ)

――柳原燁子小説『荊棘の實』――から

宮崎龍介との出会い

4.

柳原燁子小説『荊棘の實』は昭和三年に新潮社から出版された。このとき、すでに宮崎と暮らして始めることができた。が、彼は病気に罹り、柳原燁子(白蓮)は書いて書いて書きまくり彼との暮らしを立てたのであった。金は無くとも好きな男と暮らせる、その喜びで体中の力が湧いたのであろう。

少し長いがいが抜粋する。( 人身御供401から406ページから)

―――近頃暫らく日曜の教会にも出て来なかつた澄子は、今日久しぶりに学校を訪れた。そしてミスBや、舎監や、その他の人々にも会った後で、春子の部屋の扉(ドア)を叩いた。といふのは、澄子はひとり心の友である春子に、兵庫県の山本氏との縁組が定(きま)つた事について、しみじみと話して見度いと思ったからである。

「花園さん、何なの?私に話があるっていうのは?」

春子は訝しさうに澄子の顔をさしのぞくのだった。

実は此度の婚約について澄子の胸のどこやらにいふに云はれぬ不安があった。かねて兄をはじめ、兄嫁の君子にしてもこんな仕合せな縁はないと云ふし、家来や女中達に至るまで家中のすべてが悦んでゐてくれるのなら、それはきつと自分の為にも仕合せなんだらうと、ひそかに思ひ定めてはゐるものの、澄子の心はともすれば何とない不安のために、やはり暗い影に蔽はれるのだつた。澄子は春子の言葉に答へた。

「どこか誰も居ない処へ行き度いわ。私、二人切りでお話がしたいのよ」

「さう、ぢや、四階に行きませうよ、あそこなら誰も来る処ぢやないから」

「さう、そんなら四階に行きませう」

 澄子が同意するのを見て春子は先に立つて寄宿舎の四階への段々を昇つて行つた。昇りつめた四階は、殆ど屋根裏と云つた風な感じのところで、二人が入った所には、ふだん使はない、椅子や机が、埃だらけになつて積み重ねてあつた。細い窓から射す光線は、やつとお互ひの顔を見得る位のかすかなものだつた。

 「汚いけれども此処なら誰も来る気遣ひはないことよ」

 さう云ひながら春子はハンケチを出してひとつの椅子の塵を払つて澄子にすすめ、自分も澄子と向かひ合うやうにして座をしめた。澄子は暫らく黙ってゐたが、

「春ちゃん、私嫁(ゆ)くとこが定(きま)つたのよ」

 いきなり斯う云つて、春子がさぞ驚くだらうと云つた風に、じつとその顔を見入つてゐたが、春子はたいして驚く様子もなかった。

「 さう、いよいよ定(き)まつたの?どこへ嫁(ゆ)くことになつたの?」

 春子に斯う聞かれると、澄子はただ未来の楽しさうな幻影を夢みながら話すのだつた。

「あのね、兵庫県のね、大地主なんだって、とても大した大金持ちなんですつて。それで年が大変異(ちが)ふのよ、私とね、一寸親子位は異(ちが)ふのよ、そして教育は全くない方だつていふ話なんだけどもね、その方が女学校も建てていらつしやるのよ。だから私達の気持ちでもきつと理解の出来る方にちがひないと思ふの、家の姉のいふのに、年が異(ちが)ふから何でも私の思ふ存分になるから仕合せだつていふのよ、私さうしたら貴女をすぐに呼んで上げるわ、私、貴女は一番仲の良いお友達なんですからつてさう云つて、その女学校の英語の先生に貴女を呼んで貰ふわ、そして貴女は私の家から昼間は学校に通ふの、その他の時間は私と二人でね、さうすりや今までよりかもつともつとお話も出来るし嬉しかない?ね、春ちゃん、私あつちへ行つたら、すぐに貴女を呼んで上げるから、そのつもりでいらつしやいよ、これから貴女と私の理想を追々に実現することも出来ると思ふの・・・」

 澄子ははしやぎ切つたやうに一人でしやべりつづけた。と、春子はもう堪らなさうに澄子の言葉を遮ぎつた。

「一寸待つて頂戴よ、花園さん、貴女そりや何を云つてるの、一人で勝手に定(き)めたつて、私、貴女に呼ばれたからつて、そんな処へゆくかどうか解りやしないぢやないの」

 春子は少し怒つたやうにつんとした。その見幕に澄子は、話の腰を折られて黙つてしまつた。

「ねえ、花園さん、嫌やあよ私、貴女がそんな処へお嫁にゆくの、いやだから止して頂戴。ね、貴女断つておしまひなさいよ」

「何(ど)うして?だつてもう結納もすんぢやつたのよ」

「結納がすんだつていいぢやないの、まだ結婚する前なんだから、ね、およしなさいよ」

「なぜなの」

「なぜつて、貴女親子程も年が異(ちが)つてゐて何が面白いの。私、あなたのお兄さんもずゐ分解らずやだと思ふわ、私がもしか自分の妹をお嫁にやるんだつて、お父さん程年上の人の処へはやらないわ、第一そんな人と話が合ふと思へて?貴女」

「だけど春ちゃん、その代りにあの方はどんな事でも私の願ひはきいて下さるんですつてよ、私の望むもの、私の好きなもの、私の希(ねが)ふもの、何だって私の心を満足させる為だつたら、どんなことでもして下さるんだつてよ、だから私あの方の沢山持つてゐるお金で、何か社会事業でもして大勢の人の為になり度いのよ」

「社会の人の為?ぢや、貴女は大勢の人の為めに自分を犠牲にするつもり?」

「え、まあ。それに私・・・」

澄子は自分には自分の保護を待つ者のあることを忘れることが出来なかつた。それ等の人々の姿は、常に澄子の胸のどこかに息づいてゐるのだつた。

「だけども春ちやん、これも一つの人生ぢやないの、私、その山本さんを本当に愛して上げることが出来ると思ふのよ、山本さんが本当に私を愛して下さりさへしたならね。春ちやん、私はあの人が父のやうな愛で娘を可愛がるつもりで私を愛してくれて欲しいのよ、ね、私、それが世間にあるやうな恋愛でなくてもいいのよ。よしんば私の心にあき足りない処があるにしても、私はあの人の真実の情に満足しなければならないと思つてゐるのよ」

「本当にね、貴女は御身分高い所に生まれた身なんだけども、さうだわね、お父様に早く死なれて、私達よりも其点は淋しく大きくなつた方だわね」

 春子はさう云ひながら、其の二つの目にはもう涙を一杯ためてゐた。

 芝の花園邸には、美しい帯や着物や後から出来てくる道具類などが、次々に毎日のやうに運び込まれて来た。一々それ等のものの出来栄えを悦んで見たり足らざるものを補つたり、やりなほさせたりして伯爵夫人の君子は我が事のやうにそれからの幾日かを、忙しく悦び迎へた。其の間間には山本も時折訪ねて来た。その度、君子は山本に対してできるだけの好意あるもてなしをした。――――

小説として書かれていて、名前も仮名であるが、内容はノンフィクションであり、実名は次の通りであろう。

澄子とは 柳原燁子

春子とは 村岡花子

兵庫県の大地主とは 九州筑紫の伊藤伝衛門

君子とは 兄・柳原の妻(兄嫁にあたる)

ここでは一回目の結婚が破局に終わり、再び東京の柳原家に戻ってきた燁子。

始めの結婚とは、遠縁にあたる北小路資武(すけただ)と十六歳で結婚させられ京都に赴いたが、結局、一児を産み、一児を残したまま離縁して東京に戻る。

その後、学習院女学校から、東洋英和女学校で勉学に励む。そのころキリスト精神を知り、また友人に、クリスチャンで後に翻訳家となる、村岡花子と親しくなって、個人の尊厳について学んだのだろう。自由で自己集中する意思はこの学校で学んだものであろう。自尊心の強い性格が目を出す。このときの想いが、後に意に沿わない伊藤伝衛門と別れるために、宮崎龍介に助けを求めようとする意思が強く出たとわたしには思える。

の後、二十四歳で東洋英和女学校に入学し、読書しキリスト教に触れた。友人に翻訳家の村岡花子(山梨県出身)がいる。その影響を強く受けたようだ。このころ和歌を佐佐木信綱に師事し

 稲妻のごと来り去るその束の間をわれ人にして生く

・吾につらき記憶の一つ殺してむ力し有らばいざ救ひませ  10p

(柳原燁子第一歌集『踏絵』から)  8p

『踏絵』の歌集の題でも分かるように已むに已まれぬ、切羽詰った思いで歌を詠んだ性急さが感じられる歌集である。キリスト教の女学校に入学し、自己に目覚めた作者が、矛盾を抱えながら、壮年の炭鉱王に嫁ぐ。そこからの葛藤のうたが連なる。

大正七年(一九一八年)、戯曲『指鬘外道』(しまんげどう)を雑誌「解放」に発表。これが評判になり、劇団が上演を希望、その許可を求める書状が届いた。差出人は「解放」の記者・宮崎龍介だった。龍介の父は孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天とうてん、宮崎も東京帝国大学で「新人会」を結成し、労働運動に打ちこむ。

戯曲『まん外道げどう

白蓮は真実の愛のある生活を欲した。宮崎龍介との恋に落ちると、力づくで宮崎のもとへ出放した。

新聞紙上でのやり取り、「朝日」と「毎日」でのやりとり。伊藤伝衛門が身を引くことで決着。大正天皇の母が柳原愛子なるこ、彼女は白蓮の叔母に当る、即ち、父前光の妹である。

柳原白蓮は、人間らしく生きるために闘ったといえば聞こえはいいが、角度を変えると彼女の自意識に振りまわされた周辺は大変なことであった。

・子らよ母はかうしたお月様に泣いたのよと無言に語る小さきものに

(柳原燁子歌集「流転」50p)

 

宮崎龍介と暮らして落ち着きをとりもどした白蓮は、戦後は穏やかに暮らした。長男を戦争に取られ、戦死した。娘とは穏やかに。

 

 

 

彼女は小説『則天武后』を世に発表する。

則天武后は中国史上唯一の女帝であり、唐の高宗の皇后となって、後に唐に代わり武周朝を建てた女帝だ。漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」の一人に数えられる。

 

参考資料

 

歌集

柳原白蓮歌集は『踏絵』(大正四年竹柏会出版部刊)、『几帳のかげ』(伊藤白蓮著大正八年玄文社刊)、 『幻の華』(ここまで「筑紫集」にまとめている昭和三年万里閣刊)。『紫の梅』(大正十四年聚芳閣刊)、『白蓮自選歌集』(大正十年大鐙閣刊)、『流転』(昭和三年不二書房刊)、『地平線』(昭和三十一年ことたま社刊)

 

柳原燁子小説『荊棘の實』(昭和三年新潮社刊)

柳原燁子小説『則天武后』(大正十三年改造社刊)

 

柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)に付いて記す。

 

『流転』は昭和三年五月十五日、不二書房発行となっている。

 

「集後小記」(あとがき)によると

――この歌集を流転と名づけました。考えてみると『流転』

とは本当に今の私の歌集にふさわしい名です。――と述べていることでも分かるように

燁子は流転の人生であった。