宮崎信義の歌“時”のうた
- 2017年8月3日
- エッセイ
宮崎信義第十歌集「千年」“時”と題するうた三首を取り上げてみよう。
・山の高さを見ているとだんだん山の高さになってくる 遥か
宮崎信義八十六歳の作品である。
「山」とは、遠くに見える山のことだろう。山の高さを感じ取れる場所である平地から向こうに見えているときの山と自分の関係。山に対峙している山が作者と同じような背丈になってきた。山に向かって佇んでいると、その山さえも友を前にして話し合っているような意識。遥か向こうの山とわたしが「だんだん山の高さになってくる」のである。山への親しみがわいてきて、山とわたしは溶け合ってくる。しかし、実際には「遥か」遠く、決して同体になることはない。
・時は戻らぬ悲しみや苦しみは夜が明けるにつれて山へ帰る
「悲しみや苦しみ」は夜中に襲ってくる。悪夢にさいなまれて寝汗で悪寒が走り、目覚めることもある。しかし夜が明けるにつれ「悲しみや苦しみ」は「山へ帰る」という。昼間忙しく暮らしているとき悲しみも苦しみも忘れたように、或は忘れたふりをして動き回っている。ところが夜になるとその感情がどこからともなく再び戻ってくる。
夜が怖い。払っても払っても悪夢が襲ってきて不快な感情に陥る。
発句の「時は戻らぬ」がこの歌の救いである。どんなに後悔しても時は逆廻りしない。時は戻ることなく、ただ忘れてゆくだけ、忘れることは救いである。宮崎信義は「山」が好きな男だ。彼の言うゆったりしておおらかで母のふところのような、そんな山。
「山」には神仏が宿り、いつかは自分もその山に帰ると信じているのであろう。
・歩き出すのは過去を捨て去るため落ち葉を踏んでいるときも
上の句のフレーズにずしーんときた。宮崎信義のように、私もよく歩き回る。じっと同じ処に居たくない。根が生えて自分が茸にでもなってしまいそうで、茸になる前に歩きはじめる。電車に乗り街を出て、やっと大きく深呼吸する。口をパクパク開けて外気を吸い、ようやく人心地が付くのである。歩き出すのは「過去を捨て去るため」かもしれない。現状や過去に安住できない。動き回っているときだけ辛かった過去や現状から離れることができる、未来を見よう。とでも言っているような。「落葉を踏んでいるときも」が計りかねるが、恋人と落ち葉を踏んでいるときさえも、そこから歩き出したい、現状を抜け出したい。八十六歳にして宮崎の安住を求めない精神の若さをみる“時”の短歌には宮崎の精神の若さを見る。