宮崎信義の作品から
- 2017年9月30日
- エッセイ
・山が描けるか風や水が描けるかあと一日で春になる
京都・空印寺の歌碑 宮崎信義歌集「千年」(見えるもの)
この短歌は平成11年(1999年)、宮崎信義87歳の作である。
八十代を過ぎて宮崎信義の眼にはこの地球という星が、争ったり罵り合ったりしている姿を、哀しみをもって見つめていた。日本のなか、特に歌壇のなかはどうだろうか。短歌の形式についても、文語だ口語だ、定型だ自由律だと言ってみても、世の中は自在を求めて変化し流れ着くもの。不確実な世のなかで、さていったい確実なものは何か、私たちはどこへ流れてゆくのか、と思いつつ暮らしている。それを短歌に表現している。
いろいろ将来を苦慮しても、行きつくところに行くのだろう。必ず春はくるのだ。これからも短歌は民族の歌として詠みつづけられていく事だろう。
「私は京の都の高台に座って、これからのようすを耳を視覚を凝らして見つめている」じっくり春になるのを待つのだ。
この歌の「山」「風」「水」は形があって形がない。漠然として、画面の中にこれだっと描くことが出来ない。それを言葉にするのが短歌である。と宮崎は言っている。
宮崎信義は晩年になって、見えなかった物事がうっすらと見えてきた。
焦ってもあわてても春は来る時にやってくる。そうだ。今年も「あと一日で春になる」。その時を静かにまとう。
この歌碑の建つ京都、山越の印空寺は、宮崎の自宅、宇多野からも近く、嵯峨野広沢池の東に位置している。江戸時代の初期に印空上人によって建立されたという寺。門を入ったところに大きな樹木があり、この葉っぱが「葉書」の元になったといわれている。
この短歌の前後には次のような歌も詠んだ。
・冷たい水を飲むと透明になっていく子や孫が遠く手を振る (いそぐことはない)
・樹をたたくと女の声男の声がする世の中曲がっているとは思わない (見えるもの)
・国境が消える―寝転んでいるのは犬と風とお陽さま (見えるもの)