石川啄木のうた -啄木の黒板-

そのかみの神童の名の
悲しさよ
ふるさとにきて泣くはそのこと

ふるさとの山の向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
(石川啄木歌集「一握の砂」)

この秋、岩手県盛岡駅に降り立つ。歌友の案内で啄木の渋民尋常小学校の教室に私はたった。
明治十九年(一八八六)に生まれた啄木は六歳のときみんなより一年早くこの小学校に入学した。明治三十一年には盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。明治三十九年、二十一歳になった啄木は与謝野鉄幹らの知遇を経たが、失意のうちに渋谷村に帰郷し、代用教員として再びこの学校で教鞭をとった。当時の教室がそのまま保存されているのである。
二階の教室へ通じる廊下の敷板には隙間が多く、教室に入るとまず黒板が眼に入った。この黒板を見た瞬間、私の小学校時代の黒板を思い出した。啄木の時代から五十年も経っていた(一九五〇年頃)が戦後間もないころだったから漆も手に入らず、砥粉と油煙を混ぜてヘラで塗っただけの黒板は明治時代の黒板と同じだった。それは、白墨が乗らない。板の芽の穴に白墨の粉が入ってしまい、でこぼこぼこした板で字もきれいに治まらない。それでも先生に名指しされて、よく黒板に算数の計算式を書いたものだ。
後に教師となった私に生徒が「何で緑の板なのに黒板というのか」と質問されたことがある。今教室にあるのは緑のすべすべして滑らかな字の書き易い緑版である。
ともかく明治の啄木の教室を見ながら、懐かしいものを見るような気分。横にあるリードオルガンにも触れる。二人用のつなかった机。明治から昭和の三十年代まで続いた風景である。
この盛岡の昔の渋谷村に平成の現在もほとんどそのままに残されているのである。
ところで啄木の初恋は十四歳である。明治三十八年に啄木二十歳で結婚した相手の女性は堀合節子。旧南部藩士の邸に育った彼女は公務員の父と穏やかな母の愛の中で育つ。ピアノも弾いて英語にも力を注ぐ盛岡女学校に学んだ。啄木の理想と現実の間で妻の節子は苦労した。壮絶な結婚生活であった。啄木二十五歳で「一握の砂」出版。明治四十五年四月十三日、二十七歳の若さで肺結核のため死去。その二ヶ月後の六月、第二歌集「悲しき玩具」が東雲堂から土岐善麿や西村陽吉の尽力によって出版される。