永田和宏の人と作品

― 「幻想派」の時代 ―

「永田和宏作品集1」が二〇一七年五月一四日に青磁社で上梓された。しばらく永田の短歌を学んでみたいと思う。

その頃のことをエッセイ集「あの午後の椅子」に永田和宏は次のように書いている。
―それにもまして、大学で短歌をやったことは大きかった。京都短歌会に入会し、その顧問をしておられた高安国世せんせいの「塔」という結社にも入会した。学生短歌会の仲間らと同人誌「幻想派」の結成にも参加したのは二回生のとき。―
関西の大学は一年生二年生ではなく一回生二回生と呼ぶ。永田の十代から二十代の作品である。京都の大学、京大、京女大、同志社、立命、奈良女子大などの学生がいて、永田和宏、安森敏隆、北尾勲、田中富夫、川口紘明、河野裕子、遠山利子、光本恵子などがいた。
「幻想派一号」から河野の歌”薔薇盗人”を見てゆく。
・たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫って行っては呉れぬか
・灼きつくす抱擁の時もナイフ持て君が心臓さぐりゐしわれ
・吾がために薔薇盗人せし君を少年のごとしとみあげてゐたり
・ぬらぬらと緑のゴムの手袋がもの掴む形に脱ぎ捨ててあり
このころ河野裕子は宮崎信義のところにも出入りしていたから「新短歌」お歌作りの影響も見える。定型律にこだわらなく、勢いで歌うところなど。自由律の色濃い短歌である。
この河野の積極的な短歌に対して、永田は幼い頃に死に別れた母を思う。河野に母性を感じたのであろうか。同じ「幻想派一月号」には次の歌”死の死角”と顕して次の歌が見えるのである。
・砂浴する鶏の眼の鋭きを見てより昼は母が恋しき
・無造作に硬き額かきあげて夕日の中に母追いたり

永田はこのころのことを最近思い起こして次のようにつづる。
「学生運動にはついに積極的にかかわることはなかったが、短歌と恋人に出遭ったことは、その後の私の人生を文字通り決定づけた2つの出会いであった。
……以来四十数年、物理への郷愁はあるが、落ちこぼれたことを後悔したことはない」。(「青春の詩歌」二〇一四年五月から)

永田の思い出は私の思い出とも重なる。しかし、私は、永田と河野より二級上級のため「幻想派」はゼロ号の参加のみで郷里鳥取において教職に就くため、京都を去ってしまった。のちのことは風のたよりである。