安森敏隆さんありがとう
- 2018年2月28日
- エッセイ
しばらく学生時代の超結社誌「幻想派」について記してきたのだが、思えばこの京都学生連盟の短歌誌を出そうという言いだし人は安森敏隆を中心とする北尾勲や川口紘明のあたりから出たのではなかろうか。「幻想派」は0号から十号までで終刊となった。それから二十年も経った平成の初めのころ、かつての仲間で短歌誌「ポエニックス」(不死鳥)誌を出そうと私にも声がかかった。一九六〇年代の第二期安保や高度成長期から時代を経て世の中はバブルもはじけ、不景気な一九九〇年代になっていた。そんな時代を超えて、短歌をやり続けていた彼らは、それぞれ歌壇でも、社会的にも生活者としてもそれなりの活躍をしていた。
安森さんは、一九四二年に広島県三次に生まれ、父は戦死と聞く。京都の立命館大学の学生の頃、「幻想派」を結成。その後は大学院に学び、ふるさと広島県の梅花女子大の教授となる。
特質すべきは、「介護短歌」という新しい分野に挑戦し、暗くなりがちな介護社会に明るい光を投げかけたことである。
一九九七年の秋のこと。京都に出かけていたわたしに、インタビューしたいというので、伏見深草の自宅を訪ねる。昼過ぎにお邪魔して、話が済んだ頃、外は暮れていた。三時間も話が弾んだのであった。淑子夫人が何とも穏やかで気の好い女性、合いの手がうまいのである。二人は学生時代の知り合いと聞く。私は田中順二、和田周三、平井乙麿や島木赤彦から宮崎信義まで、アララギから新短歌まで、「台所からカフカまで」哲学から短歌論までお互いに語った。安森さんの形式への質問に対して。「やはり自由律とはいえある程度の長さ形は在るのですよ。三十一音は基調音として重んじ、その幅として、五音の誤差はゆるす。短歌を作る意識が重要であり、何を詠うかが先にあって形は後からついてくる。ともかく普段使っている現代の口語で」などと答えた記憶があり、今も変わらぬ私の口語短歌論である。
さて、今年の一月九日昇天、享年七六歳の安森さん。その葬儀について永田淳君から電話が入る。
あわてて信州から葬儀に出席のため京都に宿を取る。翌朝、京都から十三で宝塚線に乗り換え池田市の葬儀場に着いた。安森さんの三男の安森智司牧師の司式で葬儀が行われた。息子の司式で昇天を果たす父・安森さんの幸いを想う。