福田龍生氏を偲ぶ
- 2018年4月2日
- エッセイ
・さびさびと雪に降られてあゆみをり、遠山人のこゑを聴きつつ(福田龍生歌集「雪の旅人」)
・考へる葦なればわれが吹かれをりもの寂しくも身に鳴る風に(福田栄一「時間」)
「古今」の主催者であった福田龍生氏が亡くなった。平成二十九年十月八日死去。
平成三十年、二月二十五日、中野サンプラザで「福田龍生氏を偲ぶ会」が催されたのであった。八十六歳と聞いて、「ええそんな歳だったの」と聞き返すほど、彼は若々しい気丈夫で洒落てシャイな男であった。ストライプの入ったグレーのスーツを着こなし、ポータータイというのだろうか、木彫を首に下げて、かつての文士の愛用したようなタイを締めていた。若いころの龍生を私は知らないが、ともかく坂口安吾や田中英光を思わせる無頼な、最後の文士のような気概があり、決して弱音を吐かなかった。父・栄一を尊敬しながらも、息子としての誇りか対抗心か、若いころは従順とはいかなかったのだろう。
父・福田栄一は(一九〇五-一九七五)超結社「日光」に参加。一九二四年、大正十三年、「日光」に北原白秋、筏井嘉一、小泉千樫、石原純、土岐善麿など、口語自由律歌人も交じって旗揚げした。この仲間に福田栄一もいたのであった。昭和の初期、栄一は雑誌の編集長を勤めながら小泉苳三の「ポトナム」に参加している。敗戦をはさみ、中央公論社などで、編集の仕事をしながら、戦後の荒廃のただなかの一九四六年「古今」を創刊する。それは並々ならぬ決意だったと思われる。以来、多くのすぐれた歌人を養成したが、一九七五年食道癌で亡くなった。死亡後は妻のたの子夫人が継承した。
一九九五年には、出版社に勤務をしていた息子の福田龍生が「古今」を継いだ。栄一の没後、その結社は混とんとして、西村尚、大滝貞一らそれぞれ別の結社を作って出てゆく。また青森にも多くの会員がいたと聞くが、彼らはどうしているのか。いまその「古今」も龍生の死とともに発行されていない。誰か引き継いでと願うばかりであるが、人の感情は淡白になり何事も継承の難しい時代となった。
最後に福田龍生氏を思って一首。
・呑み唄い煙草を離さなかった龍生のダンディ忘れない (光本恵子)