今井邦子について
- 2018年11月2日
- エッセイ
今井邦子記念館は長野県下諏訪町の湯田町に建つ。今井邦子(1890根年~1948年)を継承しようと下諏訪町で、元の旅館に似せて建てた。以前は江戸時代からの下諏訪町湯田の中山道沿い「松屋」と号した旅籠であった。記念館と称する前にも、邦子の没後、姪の岩波佳代子さんが住んでいて、私は幾度か訪ねたことがあった。
今井邦子は旧姓、山田邦子と言い、明治23年(1890)5月31日に徳島市で生まれた。父・山田邦彦の郷里。父の邦彦は明治初期、上京し文部省に合格した人であり、邦子の出産当時は徳島県師範学校の学校長をした。母の武は淡路島の洲本の出身。その後邦彦が東京の文部省に栄転し、東京勤務となったころ、祖父母と父の約束で、三歳の邦子は姉のはな子とともに、徳島から父の実家の下諏訪の祖父母のもとに引き取られ、ここで小学校高等科まで育った。その頃キリスト教会で洗礼を受けている。その後、上京し、文学を学び、今井健彦と結婚。
大正4年、26歳の時婦人文芸社から第一歌集「片々」を出版。これは前田夕暮の「詩歌」時代の作品で、自在な歌の作り方は、夕暮の影響か。心境を率直に吐露して自在に歌っている。大正4年ごろ、子を出産し、戸惑う邦子の姿が彷彿と歌われる。
・五月雨の夕悲しも鳴る笛のまして悲しも吾子が吹き
・入日入日まつかな入日何か言へ一言言ひて落ちもゆけかし
・ほろほろと吾子が笛吹く此の母を淋しがらせに笛を吹きしく
・梅雨ばれの太陽はむしむしとにじみ入る妻にも母にも飽きはてし身に
・恋人とよしや添ふとも添はずともとてもかうても淋しき吾かな
・ほのほとも火ともなるべき生まれがら一人守りて朽ちてゆく身は
「ほのほ」とか「血潮」の言葉が多く使われ、激しく、大胆、反逆的、エゴイズムは偽らざる邦子自身の姿でもあった。
その後、赤彦に誘われてアララギに移った。赤彦死後は斎藤茂吉に師事し、つぎに、女性だけの短歌誌「明日香」を創設。昭和23年に亡くなってからは姪の岩波佳代子が継いだ。最後に歌碑から。
真木ふかき谿よりいづる山水の常あたらしき生命あらしめ 歌集「紫草」から