ミロのヴィーナスのまえで パリのルーヴル美術館
- 2018年12月2日
- エッセイ
ルーヴル美術館は、セーヌ河の川岸にある。まずセーヌ河クルー。岸辺の石造りの建造物に圧倒される。船の中は人種の渦のように様々な肌色の人が、共にどよめきながら、対岸の城や美術館を見入っていた。行き交う船が通過するとお互いに手を振りあう。上空ではグワーンとつぎつぎ軍機がとんでくる。まあ上空も両岸も賑やかなこと。クルーを終えると、さっそく、ルーヴル美術館にとびこむ。わあっ、ここも大勢の人の列だ。美術館というよりお城のよう。解説を聞いて納得。やはりここは元は城だったという。その昔、一六八二年にフランス王ルイ十四世が、自身の王宮にベルサイユ宮殿を選び、ルーブル宮殿は美術品を置く場所とした。その後、幾たびも改修を経て、ここはルーブル館となったという。世界一、入場者の多い美術館となった。
もうとても一日で観れる数の美術品ではない。しかし、今まで、日本の美術館にやって来た品も多い。「サモトラケのニケ像」などデプリカとしてみている彫像。また画集でも見ているので、初めて出合ったというより、彫刻や美術品は、懐かしい人に出会ったような喜びにあふれるのであった。
私は学生時代、京都美術館で観たミロのヴィーナスのことを思い出していた。
それは、一九六四年の春のこと。鳥取から京都の大学に入り、気分も高揚していた。そのころ、宮崎信義の「新短歌」を訪ねたりする。その年の六月、パリ・ルーヴル美術館からミロのヴィーナスが来日したのである。東京と京都で開催。京都の開始のとき、短歌の大先輩の松本みねこさんが美術館の見張り役に座るから、ぜひ見に来るようにとの話。込み合う中で「これが一八二〇年のエーゲ海で発見されたギリシャ神話の女神か」と思いながらともかく見に行った。まだ、新幹線はなくて、東京上野の美術館の後、京都まで運ぶのに苦労したと聞く。それから間もなくの十月には東京オリンピックが開催され、同時に新幹線も開通するのだが。十八歳の私はどんな気分でミロのヴィーナスを見ていたのだろう。そのヴィーナスは、本来あるべき場所のパリのルーヴル博物館に私を待っていた。五十四年ぶりの再会である。相変わらずヴィーナスは何処を見ているか分からないような眼で確かに微笑んでくれたのであった。
二〇一八年夏のことである。