エッセイ
光本惠子のエッセイ
柳原白蓮について(Ⅱ)
- 2014年6月26日
- エッセイ
――柳原燁子小説『荊棘の實』――から
宮崎龍介との出会い
4.
柳原燁子小説『荊棘の實』は昭和三年に新潮社から出版された。このとき、すでに宮崎と暮らして始めることができた。が、彼は病気に罹り、柳原燁子(白蓮)は書いて書いて書きまくり彼との暮らしを立てたのであった。金は無くとも好きな男と暮らせる、その喜びで体中の力が湧いたのであろう。
少し長いがいが抜粋する。( 人身御供401から406ページから)
―――近頃暫らく日曜の教会にも出て来なかつた澄子は、今日久しぶりに学校を訪れた。そしてミスBや、舎監や、その他の人々にも会った後で、春子の部屋の扉(ドア)を叩いた。といふのは、澄子はひとり心の友である春子に、兵庫県の山本氏との縁組が定(きま)つた事について、しみじみと話して見度いと思ったからである。 (さらに…)
ふたたび柳原白蓮について
- 2014年6月26日
- エッセイ
1.
柳原白蓮についてはポエムの部屋で何回か書いてきた。NHKの朝のドラマ「花子とアン」の仲間由紀恵の演じる柳原白蓮。とても人気はある。今回はその白蓮について短歌と解説を述べてみたい。
わが浄土はらからもたぬ楽園に君を加へて三人住まばや
われにかつてあたへられたる日のごとく子等がためするひなまつりかな
(柳原燁子歌集『紫の梅』大正十四年聚芳閣刊より)
この歌は宮崎龍介との間に生まれた男児・香織のためにひな祭りができる喜びの歌だ。
白蓮にとって今までの死をもいとわない自身の個を通した苦しい恋愛事件を想うと、晴れて愛する人の子を産み、愛する人と共に暮らせる喜び、子のために「ひなまつり」ができる。幼い日の自分が、侯爵の娘とした育った頃を思い出して微笑んでいる歌でもある。
(さらに…)
成功と持続と
- 2014年2月4日
- エッセイ
さまざまな文学関係の授賞式に参列することが多い。
先日は角川の短歌賞、俳句賞の授賞式に参列した。最近では文学賞では第150回芥川賞、直木賞が決まった。
角川短歌賞を受賞した早稲田の学生Y君は「短歌が嫌いだ」と会衆の前、大声で怒鳴り続けた。
紙面では「高田馬場の食堂で第一報を受けたときは足が震え、視界がかすんだ」ほど嬉しかったと書いているのに。いろんな感情が行き来するのだろう。受賞者の喜びの声を聞いていて思うことは、「この人たちはつづくのだろうか」との思いをつよくする。途中で消えていく人があまりに多いから。
一ケ月、一年、十年、二十年と生活していくうちにはさまざまなことに遭遇する。「文学なんってやっていられない」「食うことに精一杯、短歌を詠むような余裕はないよ」と。興味を失い、或いは経済的な理由を吐いて辞めてゆく人がいる。だれしも当然平坦な日々ではない。 (さらに…)
宮崎信義生誕百年を記念して
- 2014年1月17日
- エッセイ
1
宮崎信義生誕百年となった。宮崎は口語自由律短歌の「中興の祖」とってよい。
現在光本恵子の主宰する「未来山脈」誌は宮崎の意思を継承して口語自由律歌を標榜する雑誌。そこで「未来山脈」一月号は宮崎信義の生誕百年の特集号とした。
宮崎は明治、大正、そして昭和の初期に紆余曲折しつつ完成を見た口語短歌ではあったが、戦争によって多くの口語歌人が自由に自分の思いを詠むことができなり、多くの歌人が古い文語定型歌に回避した。が、
そんな中、戦争であちこち散らばっていた戦死を免れた人に呼びかけ、戦争から帰還した人たちとともに京都で口語歌人の集団、「新短歌」を宮崎信義を中心に四人で結成したのが昭和二十四年。
山崎豊子について
- 2013年10月31日
- エッセイ
山崎豊子さんが二〇一三年九月二九日に亡くなった。
大正十四年生まれだから八十八歳ということ。私の母と同じ豊子という名が好きだった。山崎さんといえば、京都女子大(旧・京都女専)の国文学科のわたしの大先輩で、学友も卒業すると、山崎さんの秘書になった。まもなく、盗作問題が持ち上がった。「秘書が資料を集めた際に起った手違いであると弁明した」ということだが、そのとき友の困った顔が浮かんだものだ。わたし自身もいろいろ昔の資料を基に「口語自由律の問題点」を探り記すことが多い日々。戦前の短歌作者の資料をあさり、書き写したりしながら、そんなとき、山崎豊子の顔がちらりとよぎるのである。やはり論文的なものだから資料の出所をしっかり書くようにしている。
ところで山崎豊子は江戸時代の千石船(北前船、弁才船)、北海道から大阪堺まで運ばれた昆布屋の老舗、「小倉屋山本」に生まれた。初期の作は苦労して山本を持ちこたえた生家の話を小説に表現した大阪船場の『暖簾』。 (さらに…)