エッセイ

光本惠子のエッセイ

成功と持続と

さまざまな文学関係の授賞式に参列することが多い。
先日は角川の短歌賞、俳句賞の授賞式に参列した。最近では文学賞では第150回芥川賞、直木賞が決まった。
角川短歌賞を受賞した早稲田の学生Y君は「短歌が嫌いだ」と会衆の前、大声で怒鳴り続けた。
紙面では「高田馬場の食堂で第一報を受けたときは足が震え、視界がかすんだ」ほど嬉しかったと書いているのに。いろんな感情が行き来するのだろう。受賞者の喜びの声を聞いていて思うことは、「この人たちはつづくのだろうか」との思いをつよくする。途中で消えていく人があまりに多いから。
一ケ月、一年、十年、二十年と生活していくうちにはさまざまなことに遭遇する。「文学なんってやっていられない」「食うことに精一杯、短歌を詠むような余裕はないよ」と。興味を失い、或いは経済的な理由を吐いて辞めてゆく人がいる。だれしも当然平坦な日々ではない。 (さらに…)

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宮崎信義生誕百年を記念して

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宮崎信義生誕百年となった。宮崎は口語自由律短歌の「中興の祖」とってよい。

現在光本恵子の主宰する「未来山脈」誌は宮崎の意思を継承して口語自由律歌を標榜する雑誌。そこで「未来山脈」一月号は宮崎信義の生誕百年の特集号とした。

宮崎は明治、大正、そして昭和の初期に紆余曲折しつつ完成を見た口語短歌ではあったが、戦争によって多くの口語歌人が自由に自分の思いを詠むことができなり、多くの歌人が古い文語定型歌に回避した。が、

そんな中、戦争であちこち散らばっていた戦死を免れた人に呼びかけ、戦争から帰還した人たちとともに京都で口語歌人の集団、「新短歌」を宮崎信義を中心に四人で結成したのが昭和二十四年。

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山崎豊子について

山崎豊子さんが二〇一三年九月二九日に亡くなった。

大正十四年生まれだから八十八歳ということ。私の母と同じ豊子という名が好きだった。山崎さんといえば、京都女子大(旧・京都女専)の国文学科のわたしの大先輩で、学友も卒業すると、山崎さんの秘書になった。まもなく、盗作問題が持ち上がった。「秘書が資料を集めた際に起った手違いであると弁明した」ということだが、そのとき友の困った顔が浮かんだものだ。わたし自身もいろいろ昔の資料を基に「口語自由律の問題点」を探り記すことが多い日々。戦前の短歌作者の資料をあさり、書き写したりしながら、そんなとき、山崎豊子の顔がちらりとよぎるのである。やはり論文的なものだから資料の出所をしっかり書くようにしている。

ところで山崎豊子は江戸時代の千石船(北前船、弁才船)、北海道から大阪堺まで運ばれた昆布屋の老舗、「小倉屋山本」に生まれた。初期の作は苦労して山本を持ちこたえた生家の話を小説に表現した大阪船場の『暖簾』。 (さらに…)

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短歌性とは

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短歌性とは

光本恵子

自然がずんずん体の中を通過するーー山、山、山  (前田夕暮「四歌人空の競詠」)

いきなり窓に太陽が飛び込む、銀翼の左から下から右から

(土岐善麿「四歌人空の競詠」)

ゆるぶってやれゆすぶってやれ 木だって人間だって青い風が好きだ

(宮崎信義『急行列車』)

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫って行っては呉れぬか

(河野裕子「幻想派」1号「薔薇盗人」から後に『森のやうに獣のやうに』にも)
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