エッセイ

光本惠子のエッセイ

ミロのヴィーナスのまえで パリのルーヴル美術館

ルーヴル美術館は、セーヌ河の川岸にある。まずセーヌ河クルー。岸辺の石造りの建造物に圧倒される。船の中は人種の渦のように様々な肌色の人が、共にどよめきながら、対岸の城や美術館を見入っていた。行き交う船が通過するとお互いに手を振りあう。上空ではグワーンとつぎつぎ軍機がとんでくる。まあ上空も両岸も賑やかなこと。クルーを終えると、さっそく、ルーヴル美術館にとびこむ。わあっ、ここも大勢の人の列だ。美術館というよりお城のよう。解説を聞いて納得。やはりここは元は城だったという。その昔、一六八二年にフランス王ルイ十四世が、自身の王宮にベルサイユ宮殿を選び、ルーブル宮殿は美術品を置く場所とした。その後、幾たびも改修を経て、ここはルーブル館となったという。世界一、入場者の多い美術館となった。 (さらに…)

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今井邦子について

今井邦子記念館は長野県下諏訪町の湯田町に建つ。今井邦子(1890根年~1948年)を継承しようと下諏訪町で、元の旅館に似せて建てた。以前は江戸時代からの下諏訪町湯田の中山道沿い「松屋」と号した旅籠であった。記念館と称する前にも、邦子の没後、姪の岩波佳代子さんが住んでいて、私は幾度か訪ねたことがあった。 (さらに…)

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木曽義仲と今井兼平

六月十日、岡谷を出発したバスは「平家物語」の仲間をのせて、京都駅に到着。京都駅から滋賀県の彦根方面へJRに乗る、十分ほどで琵琶湖のほとりの膳所駅につく。荷物をロッカーに預けると身軽になった。ここから義仲寺まで歩くことにする。今から九〇〇年も前のこと。義仲は冬の泥沼のような「粟津の浜」(現在の大津市南部膳所駅から琵琶湖方面に徒歩二十分のところ)で馬の脚をとられた処を、義経軍によって弓を射られて亡くなった。現在の義仲寺はその場所にある。初めは小さな祠だけの墓であった。巴御前らしき媼が弔ったらしい。その後、戦国時代には墓は消滅しながらも江戸時代になると、松尾芭蕉が義仲の哀れに共感し「自分が死ねば義仲の墓の横に」と伝えられる。現在では義仲と芭蕉二人の墓が仲良く並んでいた。いくつかの芭蕉の樹木があるなか、芭蕉の花が黄色く薄い花もついて咲き乱れていた。 (さらに…)

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命ある限り学びたい ~下諏訪の結社へ入会の申し出

 

信濃毎日新聞 2018年(平成30年)7月3日

命ある限り学びたい

下諏訪の結社へ入会の申し出

 

「私は死刑囚ですが、そんな者でも会員になって短歌を詠むことができますか」
2004年8月のある日、諏訪郡下諏訪町の歌人、光本(みつもと)恵子(けいこ)(72)の自宅に、岡下(おかした)香(かおる)という人物から手紙が届いた。光本は月刊の短歌誌「未来山脈」を主宰しており、入会の申し出を受けることは珍しくない。だが死刑囚からは初めてだった。そもそも東京拘置所からというだけで、気が動転した。死刑の執行も行われる巨大な刑事施設だ。
手紙はその一室で書かれた。薄いリポート用紙に、細かい字がびっしりと並んでいた。人をあやめて死刑判決を受けた身であること、同誌が「今日の言葉で自在に」と掲げていて取り組みやすそうだったこと、何より「未来山脈」という言葉の響きに引かれたことなどが率直に記されていた。
「未来への導きであるかのようで心地よく響き(中略)私のような者でも受け入れてもらえるなら、無学だが生命のある限り短歌を学んでみたい」(岡下著「終わりの始まり」より)
光本は大きく深呼吸して、ゆっくり考えた。人をあやめた-。殺人犯への恐れが胸を覆った。

岡下香(歌集「終わりの始まり」より。撮影年不明)

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スイスの首都ベルンの熊公園―アインシュタインと石原純

2018年7月14日、スイスのベルンに足を踏み入れた時からその落ち着いた街の空気に魅せられている夕方、ボンボンと大きな音がしてからくり時計の中から熊が現れた。午後八時の知らせである。からくり時計が建造されたのが十三世紀というから驚き。時計の中から現れた熊のキャラクターは、十七世紀に付け足された。毎時間、鐘が鳴るたびに熊が現れ、街行く人を和ませてくれる。夜の十時まで明るいのだ。ヨーロッパの夏時間は冬より一時間遅く設定されてる。
中世の時計台に圧倒され続けていた私にさらに頭を殴られたような感動に嵌まったのは、熊公園のアインシュタイン(1879-1955年)の銅像に触れたとき。
次の歌は石原純がスイスで初めてアインシュタインに会った時の心騒ぐ石原の短歌、それはまるで恋人に会ったような嬉しさにあふれている。 (さらに…)

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高山寺から神護寺へ

この六月十日十一日と京都の北山杉の栂尾町高山寺から神護寺を歩いてきた。
小雨の降ったり止んだりするなか、杉の木と緑の楓に古の人を思い、夢心地で歩く。
高山寺の石水院には擬人化された動物を描く鳥獣戯画がのこり、「平安時代の後期にはこんな躍動感あふれる筆致のカエルやウサギを描いたのか」と驚き歓んで目にした。 (さらに…)

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命ある限り学びたい

信濃毎日新聞 2018年(平成30年)7月3日

命ある限り学びたい

下諏訪の結社へ入会の申し出

 

「私は死刑囚ですが、そんな者でも会員になって短歌を詠むことができますか」

2004年8月のある日、諏訪郡下諏訪町の歌人、光本(みつもと)恵子(けいこ)(72)の自宅に、岡下(おかした)香(かおる)という人物から手紙が届いた。光本は月刊の短歌誌「未来山脈」を主宰しており、入会の申し出を受けることは珍しくない。だが死刑囚からは初めてだった。そもそも東京拘置所からというだけで、気が動転した。死刑の執行も行われる巨大な刑事施設だ。

手紙はその一室で書かれた。薄いリポート用紙に、細かい字がびっしりと並んでいた。人をあやめて死刑判決を受けた身であること、同誌が「今日の言葉で自在に」と掲げていて取り組みやすそうだったこと、何より「未来山脈」という言葉の響きに引かれたことなどが率直に記されていた。

「未来への導きであるかのようで心地よく響き(中略)私のような者でも受け入れてもらえるなら、無学だが生命のある限り短歌を学んでみたい」(岡下著「終わりの始まり」より)

光本は大きく深呼吸して、ゆっくり考えた。人をあやめた-。殺人犯への恐れが胸を覆った。

岡下香(歌集「終わりの始まり」より。撮影年不明)

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根岸芳郎の世界に浸る

2018年度5月5日、根岸芳郎展「色彩浴の森へ」が開かれている原村の八ヶ岳美術館を訪ねる。
私が信州に住み始めるとき、1980年ごろのこと、根岸芳郎のアトリエに出かけていった。根岸は、ボストンの美術学校から帰国した時であった。自ら画材を鋸と金槌で作り、広いアトリエで汗を流しながらで赤や青のアクリル絵の具をバケツで上から流したり、箒のようなものを振ったりしていた。そこには絵というより形のない淡淡とした幻想的な空間世界が広がっていた。 (さらに…)

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宮崎信義の歌 首の歌

歌集「地に長く」から
〇これが七十七歳という顔か鏡をぐっとにらんでみたりにっこりしてみたり
「どっしり見えるのは」

①私の首は目をつむったまま生きていて動かぬ何万年か経っていよう

②首から下は要らぬ食べ物も着物も要らぬ天と地の間に生きて

③私の首は飾るがよい鹿や熊よりも生き生きしていて星に近い

④丘に私の首を飾れ天と地が徐々に暗くなってきた

⑤私の首は吊るしたままがよい静かに天と地が近づいてくる
「天と地と」 (さらに…)

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「短歌雑誌連盟」第一回特別賞に輝いた宮崎信義

・笑われても罵られても気にはせぬ星の一つをぐっと飲む (いつどこで)
・失望したりしょげはせぬ甘えもしない道は自分でつけてきた (いつどこで)
・ふるさとの自然に還る―それが何より生まれ育ったところなのだ (絶筆・もうお任せだ)
(宮崎信義遺歌集「いのち」から) (さらに…)

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