エッセイ
光本惠子のエッセイ
幻想旅行の出発 - 「幻想派」0号を読む
- 2018年2月2日
- エッセイ
「幻想派」0号は一九六七年に発行された。今年は二〇一八年。あれから五一年も経つのだ。二十代だった我々は今七十代になった。当時どんな歌を作っていたのか、検証してみるのも面白い。
・君の瞳の運河をのぼり星を撃つたった一つの声が在るなら (川口絃明)
・川音にききいるる白き遠さよ童話うまるるかたちのくちずけ (稲美紘之)
・みずみずと熟れたるメロン含みたる傷みとなりて甦る夏 (児島真枝)
・あまりにも星が重たい あの人の肩の溶けそうなやさしさ (三船温子)
・森越えて故郷売りゆく仲介業者やわらかき部分残してゆきつ (田中富夫)
・ほとほとに疲れて帰る街角のホットドッグより血は垂れ落つる (永田和宏)
・ふつふつと湧くこの寂しさは何ならむ友ら皆卒へし教室に立つ時 (河野裕子)
・一瞬たじろいで振り返った湖 人影もなく銀色に震えている (光本恵子)
・蹴る石ころがない 冷えたコンクリートの上で歩調を乱せないでいる (遠山利子)
・そむかれしその確かさに崩れていて夕べ紫紺の茄子のやさしさ (橋本弘子)
・我が裡に巣くらふ飢餓をおさへつつ見てゐたり蒼き海の展がり (金沢照子)
・ふし穴から明るき世界のぞきいて四角の部屋に幾度の夏は来る (桐林康弘)
・今まさに井出せんと声あぐるとこしなえに輝く門柱 (北尾勲)
この他に評論として安森敏隆の〈斎藤茂吉幻想論〉、西尾昭男の〈前衛の拠点としての短歌性論〉が載っている。
北尾勲があとがきで「鈍行列車にせよ急行列車にせよ、行き先を問わず乗車することの意味を一度考えてみる必要があるのではないか…これが幻想旅行のはしりである。」と記している。
その後は列車を下車した人、特急に乗り換えた人。私は鈍行列車のまま今日も短歌と格闘の日々である。そこに永田知宏・河野裕子の息子、永田純君から電話が入った。「二〇一八年一月九日安森敏隆さんが亡くなられました」と。
一九六八年「幻想派」の時代
- 2018年1月5日
- エッセイ
京都学生連盟「幻想派」時代の前後はどんな時代であったか昭和四十二年一月一日発行「幻想派」〇号の最初の歌を取り出してみよう。
①饒舌の呼び寄せる夏 目くらむばかり向日葵の群れやまず (序奏曲・夏 永田和宏)
②癒へしのちマルテの手記も読みたしと冷たきベッドを撫でつつ思ふ (青き林檎 河野裕子)
③真珠の光の揺れ湖のなかから悔悟の窓開けてくる (さらに…)
永田和宏の人と作品
- 2017年12月29日
- エッセイ
― 「幻想派」の時代 ―
「永田和宏作品集1」が二〇一七年五月一四日に青磁社で上梓された。しばらく永田の短歌を学んでみたいと思う。
その頃のことをエッセイ集「あの午後の椅子」に永田和宏は次のように書いている。
―それにもまして、大学で短歌をやったことは大きかった。京都短歌会に入会し、その顧問をしておられた高安国世せんせいの「塔」という結社にも入会した。学生短歌会の仲間らと同人誌「幻想派」の結成にも参加したのは二回生のとき。―
関西の大学は一年生二年生ではなく一回生二回生と呼ぶ。永田の十代から二十代の作品である。京都の大学、京大、京女大、同志社、立命、奈良女子大などの学生がいて、永田和宏、安森敏隆、北尾勲、田中富夫、川口紘明、河野裕子、遠山利子、光本恵子などがいた。
「幻想派一号」から河野の歌”薔薇盗人”を見てゆく。
・たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫って行っては呉れぬか
・灼きつくす抱擁の時もナイフ持て君が心臓さぐりゐしわれ
・吾がために薔薇盗人せし君を少年のごとしとみあげてゐたり
・ぬらぬらと緑のゴムの手袋がもの掴む形に脱ぎ捨ててあり
このころ河野裕子は宮崎信義のところにも出入りしていたから「新短歌」お歌作りの影響も見える。定型律にこだわらなく、勢いで歌うところなど。自由律の色濃い短歌である。
この河野の積極的な短歌に対して、永田は幼い頃に死に別れた母を思う。河野に母性を感じたのであろうか。同じ「幻想派一月号」には次の歌”死の死角”と顕して次の歌が見えるのである。
・砂浴する鶏の眼の鋭きを見てより昼は母が恋しき
・無造作に硬き額かきあげて夕日の中に母追いたり
永田はこのころのことを最近思い起こして次のようにつづる。
「学生運動にはついに積極的にかかわることはなかったが、短歌と恋人に出遭ったことは、その後の私の人生を文字通り決定づけた2つの出会いであった。
……以来四十数年、物理への郷愁はあるが、落ちこぼれたことを後悔したことはない」。(「青春の詩歌」二〇一四年五月から)
永田の思い出は私の思い出とも重なる。しかし、私は、永田と河野より二級上級のため「幻想派」はゼロ号の参加のみで郷里鳥取において教職に就くため、京都を去ってしまった。のちのことは風のたよりである。
石川啄木のうた -啄木の黒板-
- 2017年11月1日
- エッセイ
そのかみの神童の名の
悲しさよ
ふるさとにきて泣くはそのこと
ふるさとの山の向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
(石川啄木歌集「一握の砂」) (さらに…)
宮崎信義の作品から
- 2017年9月30日
- エッセイ
・山が描けるか風や水が描けるかあと一日で春になる
京都・空印寺の歌碑 宮崎信義歌集「千年」(見えるもの)
この短歌は平成11年(1999年)、宮崎信義87歳の作である。
八十代を過ぎて宮崎信義の眼にはこの地球という星が、争ったり罵り合ったりしている姿を、哀しみをもって見つめていた。日本のなか、特に歌壇のなかはどうだろうか。短歌の形式についても、文語だ口語だ、定型だ自由律だと言ってみても、世の中は自在を求めて変化し流れ着くもの。不確実な世のなかで、さていったい確実なものは何か、私たちはどこへ流れてゆくのか、と思いつつ暮らしている。それを短歌に表現している。
いろいろ将来を苦慮しても、行きつくところに行くのだろう。必ず春はくるのだ。これからも短歌は民族の歌として詠みつづけられていく事だろう。
「私は京の都の高台に座って、これからのようすを耳を視覚を凝らして見つめている」じっくり春になるのを待つのだ。
この歌の「山」「風」「水」は形があって形がない。漠然として、画面の中にこれだっと描くことが出来ない。それを言葉にするのが短歌である。と宮崎は言っている。
宮崎信義は晩年になって、見えなかった物事がうっすらと見えてきた。
焦ってもあわてても春は来る時にやってくる。そうだ。今年も「あと一日で春になる」。その時を静かにまとう。
この歌碑の建つ京都、山越の印空寺は、宮崎の自宅、宇多野からも近く、嵯峨野広沢池の東に位置している。江戸時代の初期に印空上人によって建立されたという寺。門を入ったところに大きな樹木があり、この葉っぱが「葉書」の元になったといわれている。
この短歌の前後には次のような歌も詠んだ。
・冷たい水を飲むと透明になっていく子や孫が遠く手を振る (いそぐことはない)
・樹をたたくと女の声男の声がする世の中曲がっているとは思わない (見えるもの)
・国境が消える―寝転んでいるのは犬と風とお陽さま (見えるもの)
宮崎信義の歌 - 二段組みの短歌から -
- 2017年8月30日
- エッセイ
歌集「太陽はいま」(昭和六三年・短歌研究社刊)を取り上げる
宮崎信義の作品の中で上下句に分かれている「二段組み」の作品を選んでみた。
上と下のフレーズで関連のある場合と、内容から見て、吹っ飛んでいる場合とがある。その飛躍が短歌を面白くし、自身のことだけを詠うのではなく、個人的な目線から離れて、視野を広く、短歌を普遍的にする効果があると感じる。 (さらに…)
宮崎信義の歌“時”のうた
- 2017年8月3日
- エッセイ
宮崎信義第十歌集「千年」“時”と題するうた三首を取り上げてみよう。
・山の高さを見ているとだんだん山の高さになってくる 遥か
宮崎信義八十六歳の作品である。
「山」とは、遠くに見える山のことだろう。山の高さを感じ取れる場所である平地から向こうに見えているときの山と自分の関係。山に対峙している山が作者と同じような背丈になってきた。山に向かって佇んでいると、その山さえも友を前にして話し合っているような意識。遥か向こうの山とわたしが「だんだん山の高さになってくる」のである。山への親しみがわいてきて、山とわたしは溶け合ってくる。しかし、実際には「遥か」遠く、決して同体になることはない。
・時は戻らぬ悲しみや苦しみは夜が明けるにつれて山へ帰る
「悲しみや苦しみ」は夜中に襲ってくる。悪夢にさいなまれて寝汗で悪寒が走り、目覚めることもある。しかし夜が明けるにつれ「悲しみや苦しみ」は「山へ帰る」という。昼間忙しく暮らしているとき悲しみも苦しみも忘れたように、或は忘れたふりをして動き回っている。ところが夜になるとその感情がどこからともなく再び戻ってくる。
夜が怖い。払っても払っても悪夢が襲ってきて不快な感情に陥る。
発句の「時は戻らぬ」がこの歌の救いである。どんなに後悔しても時は逆廻りしない。時は戻ることなく、ただ忘れてゆくだけ、忘れることは救いである。宮崎信義は「山」が好きな男だ。彼の言うゆったりしておおらかで母のふところのような、そんな山。
「山」には神仏が宿り、いつかは自分もその山に帰ると信じているのであろう。
・歩き出すのは過去を捨て去るため落ち葉を踏んでいるときも
上の句のフレーズにずしーんときた。宮崎信義のように、私もよく歩き回る。じっと同じ処に居たくない。根が生えて自分が茸にでもなってしまいそうで、茸になる前に歩きはじめる。電車に乗り街を出て、やっと大きく深呼吸する。口をパクパク開けて外気を吸い、ようやく人心地が付くのである。歩き出すのは「過去を捨て去るため」かもしれない。現状や過去に安住できない。動き回っているときだけ辛かった過去や現状から離れることができる、未来を見よう。とでも言っているような。「落葉を踏んでいるときも」が計りかねるが、恋人と落ち葉を踏んでいるときさえも、そこから歩き出したい、現状を抜け出したい。八十六歳にして宮崎の安住を求めない精神の若さをみる“時”の短歌には宮崎の精神の若さを見る。
沈黙
- 2017年3月13日
- エッセイ
学生時代、遠藤周作の作品は本が出るたびに読み、あるときは長崎の大浦天主堂まで出かけて行った。
この度、遠藤周作の「沈黙」がアメリカ人の監督マーティン・シコッセシによって制作された。
今でも、古い寺の墓地に行くと見ることがある隠れキリシタンの墓。一見、観音様のような姿をしたマリア像。よくよく見ると、マリアを観音様に仕立てた、隠れキリシタンの墓地である。愛知県でも長野県の寺でも私は見た。
時代は江戸時代前後の十六世紀の末から十七世紀の初期の話である。日本に鉄砲や火縄銃が入ってきたころのこと。
キリスト教の布教を許した信長から秀吉、家康と禁止の時代へ入っていく。
中世から近世にかけて、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどはアメリカをはじめとして、南アメリカやアジアの各地域を占領した。始まりは宣教師の名の許だった。
信長の時代、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め大名にも布教を行った。スペイン、オランダなどが、アジアを占領している実態を知った秀吉は、キリスト教を禁止する。さらに、家康は一六三九年にはキリスト教禁止を発表している。
イエス像の銅板を踏むか踏まないか、踏まない者は、キリスト者とみなされ菰にくるまれ海に流され、逆さ吊りされ火あぶりの刑に拷問に処せられた。その惨い姿を映像はあぶりだす。
イエズス会において最高の地位にいた神父、フェレイラが布教のために訪れた日本で過酷な拷問を受け、棄教したという知らせが届いたローマ。弟子である若き宣教師ロドリゴは真相を探ろうと日本行を決行し船に乗る。まずマカオにつく、ここで気弱な日本人、キチジローの案内で日本の長崎天草まで辿りつく。
現在中国領となったマカオであるが、(一九九九年にポルトガルから返還)まだポルトガル領だった頃、私はこの街を旅した。ポルトガル人の建てた煤けた洞窟のような家で麻雀を囲む老人がよろよろ歩く纏足姿が見えた。
さて、そのキチジローの密告によって奉行所に囚われてしまった宣教師、ロドリゴは様々な拷問に遭う。「こんなに苦しむ姿を神は見ながら、なぜ黙っておられるのですか」と呼びかける。ついに彼自身、転びの者として、徳川幕府の下で日本名を与えられ、通事役(通訳などの仕事をする)になった。
エンドウは自身が時には卑怯なキチジローであり、ときには、ロドリゴのような転びの者として人としての悲しみを追及する。「私は命が助かるなら、棄教するだろうと踏絵を踏む」。心張り裂ける思いで映画を観賞する。あの拷問を思うとわたしは生き抜かねばならぬと思うのである。
柳原白蓮について(Ⅱ)
- 2014年6月26日
- エッセイ
――柳原燁子小説『荊棘の實』――から
宮崎龍介との出会い
4.
柳原燁子小説『荊棘の實』は昭和三年に新潮社から出版された。このとき、すでに宮崎と暮らして始めることができた。が、彼は病気に罹り、柳原燁子(白蓮)は書いて書いて書きまくり彼との暮らしを立てたのであった。金は無くとも好きな男と暮らせる、その喜びで体中の力が湧いたのであろう。
少し長いがいが抜粋する。( 人身御供401から406ページから)
―――近頃暫らく日曜の教会にも出て来なかつた澄子は、今日久しぶりに学校を訪れた。そしてミスBや、舎監や、その他の人々にも会った後で、春子の部屋の扉(ドア)を叩いた。といふのは、澄子はひとり心の友である春子に、兵庫県の山本氏との縁組が定(きま)つた事について、しみじみと話して見度いと思ったからである。 (さらに…)
ふたたび柳原白蓮について
- 2014年6月26日
- エッセイ
1.
柳原白蓮についてはポエムの部屋で何回か書いてきた。NHKの朝のドラマ「花子とアン」の仲間由紀恵の演じる柳原白蓮。とても人気はある。今回はその白蓮について短歌と解説を述べてみたい。
わが浄土はらからもたぬ楽園に君を加へて三人住まばや
われにかつてあたへられたる日のごとく子等がためするひなまつりかな
(柳原燁子歌集『紫の梅』大正十四年聚芳閣刊より)
この歌は宮崎龍介との間に生まれた男児・香織のためにひな祭りができる喜びの歌だ。
白蓮にとって今までの死をもいとわない自身の個を通した苦しい恋愛事件を想うと、晴れて愛する人の子を産み、愛する人と共に暮らせる喜び、子のために「ひなまつり」ができる。幼い日の自分が、侯爵の娘とした育った頃を思い出して微笑んでいる歌でもある。
(さらに…)