エッセイ

光本惠子のエッセイ

木曽義仲と今井兼平

六月十日、岡谷を出発したバスは「平家物語」の仲間をのせて、京都駅に到着。京都駅から滋賀県の彦根方面へJRに乗る、十分ほどで琵琶湖のほとりの膳所駅につく。荷物をロッカーに預けると身軽になった。ここから義仲寺まで歩くことにする。今から九〇〇年も前のこと。義仲は冬の泥沼のような「粟津の浜」(現在の大津市南部膳所駅から琵琶湖方面に徒歩二十分のところ)で馬の脚をとられた処を、義経軍によって弓を射られて亡くなった。現在の義仲寺はその場所にある。初めは小さな祠だけの墓であった。巴御前らしき媼が弔ったらしい。その後、戦国時代には墓は消滅しながらも江戸時代になると、松尾芭蕉が義仲の哀れに共感し「自分が死ねば義仲の墓の横に」と伝えられる。現在では義仲と芭蕉二人の墓が仲良く並んでいた。いくつかの芭蕉の樹木があるなか、芭蕉の花が黄色く薄い花もついて咲き乱れていた。 (さらに…)

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命ある限り学びたい ~下諏訪の結社へ入会の申し出

 

信濃毎日新聞 2018年(平成30年)7月3日

命ある限り学びたい

下諏訪の結社へ入会の申し出

 

「私は死刑囚ですが、そんな者でも会員になって短歌を詠むことができますか」
2004年8月のある日、諏訪郡下諏訪町の歌人、光本(みつもと)恵子(けいこ)(72)の自宅に、岡下(おかした)香(かおる)という人物から手紙が届いた。光本は月刊の短歌誌「未来山脈」を主宰しており、入会の申し出を受けることは珍しくない。だが死刑囚からは初めてだった。そもそも東京拘置所からというだけで、気が動転した。死刑の執行も行われる巨大な刑事施設だ。
手紙はその一室で書かれた。薄いリポート用紙に、細かい字がびっしりと並んでいた。人をあやめて死刑判決を受けた身であること、同誌が「今日の言葉で自在に」と掲げていて取り組みやすそうだったこと、何より「未来山脈」という言葉の響きに引かれたことなどが率直に記されていた。
「未来への導きであるかのようで心地よく響き(中略)私のような者でも受け入れてもらえるなら、無学だが生命のある限り短歌を学んでみたい」(岡下著「終わりの始まり」より)
光本は大きく深呼吸して、ゆっくり考えた。人をあやめた-。殺人犯への恐れが胸を覆った。

岡下香(歌集「終わりの始まり」より。撮影年不明)

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スイスの首都ベルンの熊公園―アインシュタインと石原純

2018年7月14日、スイスのベルンに足を踏み入れた時からその落ち着いた街の空気に魅せられている夕方、ボンボンと大きな音がしてからくり時計の中から熊が現れた。午後八時の知らせである。からくり時計が建造されたのが十三世紀というから驚き。時計の中から現れた熊のキャラクターは、十七世紀に付け足された。毎時間、鐘が鳴るたびに熊が現れ、街行く人を和ませてくれる。夜の十時まで明るいのだ。ヨーロッパの夏時間は冬より一時間遅く設定されてる。
中世の時計台に圧倒され続けていた私にさらに頭を殴られたような感動に嵌まったのは、熊公園のアインシュタイン(1879-1955年)の銅像に触れたとき。
次の歌は石原純がスイスで初めてアインシュタインに会った時の心騒ぐ石原の短歌、それはまるで恋人に会ったような嬉しさにあふれている。 (さらに…)

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高山寺から神護寺へ

この六月十日十一日と京都の北山杉の栂尾町高山寺から神護寺を歩いてきた。
小雨の降ったり止んだりするなか、杉の木と緑の楓に古の人を思い、夢心地で歩く。
高山寺の石水院には擬人化された動物を描く鳥獣戯画がのこり、「平安時代の後期にはこんな躍動感あふれる筆致のカエルやウサギを描いたのか」と驚き歓んで目にした。 (さらに…)

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命ある限り学びたい

信濃毎日新聞 2018年(平成30年)7月3日

命ある限り学びたい

下諏訪の結社へ入会の申し出

 

「私は死刑囚ですが、そんな者でも会員になって短歌を詠むことができますか」

2004年8月のある日、諏訪郡下諏訪町の歌人、光本(みつもと)恵子(けいこ)(72)の自宅に、岡下(おかした)香(かおる)という人物から手紙が届いた。光本は月刊の短歌誌「未来山脈」を主宰しており、入会の申し出を受けることは珍しくない。だが死刑囚からは初めてだった。そもそも東京拘置所からというだけで、気が動転した。死刑の執行も行われる巨大な刑事施設だ。

手紙はその一室で書かれた。薄いリポート用紙に、細かい字がびっしりと並んでいた。人をあやめて死刑判決を受けた身であること、同誌が「今日の言葉で自在に」と掲げていて取り組みやすそうだったこと、何より「未来山脈」という言葉の響きに引かれたことなどが率直に記されていた。

「未来への導きであるかのようで心地よく響き(中略)私のような者でも受け入れてもらえるなら、無学だが生命のある限り短歌を学んでみたい」(岡下著「終わりの始まり」より)

光本は大きく深呼吸して、ゆっくり考えた。人をあやめた-。殺人犯への恐れが胸を覆った。

岡下香(歌集「終わりの始まり」より。撮影年不明)

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根岸芳郎の世界に浸る

2018年度5月5日、根岸芳郎展「色彩浴の森へ」が開かれている原村の八ヶ岳美術館を訪ねる。
私が信州に住み始めるとき、1980年ごろのこと、根岸芳郎のアトリエに出かけていった。根岸は、ボストンの美術学校から帰国した時であった。自ら画材を鋸と金槌で作り、広いアトリエで汗を流しながらで赤や青のアクリル絵の具をバケツで上から流したり、箒のようなものを振ったりしていた。そこには絵というより形のない淡淡とした幻想的な空間世界が広がっていた。 (さらに…)

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宮崎信義の歌 首の歌

歌集「地に長く」から
〇これが七十七歳という顔か鏡をぐっとにらんでみたりにっこりしてみたり
「どっしり見えるのは」

①私の首は目をつむったまま生きていて動かぬ何万年か経っていよう

②首から下は要らぬ食べ物も着物も要らぬ天と地の間に生きて

③私の首は飾るがよい鹿や熊よりも生き生きしていて星に近い

④丘に私の首を飾れ天と地が徐々に暗くなってきた

⑤私の首は吊るしたままがよい静かに天と地が近づいてくる
「天と地と」 (さらに…)

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「短歌雑誌連盟」第一回特別賞に輝いた宮崎信義

・笑われても罵られても気にはせぬ星の一つをぐっと飲む (いつどこで)
・失望したりしょげはせぬ甘えもしない道は自分でつけてきた (いつどこで)
・ふるさとの自然に還る―それが何より生まれ育ったところなのだ (絶筆・もうお任せだ)
(宮崎信義遺歌集「いのち」から) (さらに…)

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福田龍生氏を偲ぶ

・さびさびと雪に降られてあゆみをり、遠山人のこゑを聴きつつ(福田龍生歌集「雪の旅人」)
・考へる葦なればわれが吹かれをりもの寂しくも身に鳴る風に(福田栄一「時間」)

「古今」の主催者であった福田龍生氏が亡くなった。平成二十九年十月八日死去。
平成三十年、二月二十五日、中野サンプラザで「福田龍生氏を偲ぶ会」が催されたのであった。八十六歳と聞いて、「ええそんな歳だったの」と聞き返すほど、彼は若々しい気丈夫で洒落てシャイな男であった。ストライプの入ったグレーのスーツを着こなし、ポータータイというのだろうか、木彫を首に下げて、かつての文士の愛用したようなタイを締めていた。若いころの龍生を私は知らないが、ともかく坂口安吾や田中英光を思わせる無頼な、最後の文士のような気概があり、決して弱音を吐かなかった。父・栄一を尊敬しながらも、息子としての誇りか対抗心か、若いころは従順とはいかなかったのだろう。
父・福田栄一は(一九〇五-一九七五)超結社「日光」に参加。一九二四年、大正十三年、「日光」に北原白秋、筏井嘉一、小泉千樫、石原純、土岐善麿など、口語自由律歌人も交じって旗揚げした。この仲間に福田栄一もいたのであった。昭和の初期、栄一は雑誌の編集長を勤めながら小泉苳三の「ポトナム」に参加している。敗戦をはさみ、中央公論社などで、編集の仕事をしながら、戦後の荒廃のただなかの一九四六年「古今」を創刊する。それは並々ならぬ決意だったと思われる。以来、多くのすぐれた歌人を養成したが、一九七五年食道癌で亡くなった。死亡後は妻のたの子夫人が継承した。
一九九五年には、出版社に勤務をしていた息子の福田龍生が「古今」を継いだ。栄一の没後、その結社は混とんとして、西村尚、大滝貞一らそれぞれ別の結社を作って出てゆく。また青森にも多くの会員がいたと聞くが、彼らはどうしているのか。いまその「古今」も龍生の死とともに発行されていない。誰か引き継いでと願うばかりであるが、人の感情は淡白になり何事も継承の難しい時代となった。
最後に福田龍生氏を思って一首。
・呑み唄い煙草を離さなかった龍生のダンディ忘れない (光本恵子)

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安森敏隆さんありがとう

しばらく学生時代の超結社誌「幻想派」について記してきたのだが、思えばこの京都学生連盟の短歌誌を出そうという言いだし人は安森敏隆を中心とする北尾勲や川口紘明のあたりから出たのではなかろうか。「幻想派」は0号から十号までで終刊となった。それから二十年も経った平成の初めのころ、かつての仲間で短歌誌「ポエニックス」(不死鳥)誌を出そうと私にも声がかかった。一九六〇年代の第二期安保や高度成長期から時代を経て世の中はバブルもはじけ、不景気な一九九〇年代になっていた。そんな時代を超えて、短歌をやり続けていた彼らは、それぞれ歌壇でも、社会的にも生活者としてもそれなりの活躍をしていた。
安森さんは、一九四二年に広島県三次に生まれ、父は戦死と聞く。京都の立命館大学の学生の頃、「幻想派」を結成。その後は大学院に学び、ふるさと広島県の梅花女子大の教授となる。
特質すべきは、「介護短歌」という新しい分野に挑戦し、暗くなりがちな介護社会に明るい光を投げかけたことである。

一九九七年の秋のこと。京都に出かけていたわたしに、インタビューしたいというので、伏見深草の自宅を訪ねる。昼過ぎにお邪魔して、話が済んだ頃、外は暮れていた。三時間も話が弾んだのであった。淑子夫人が何とも穏やかで気の好い女性、合いの手がうまいのである。二人は学生時代の知り合いと聞く。私は田中順二、和田周三、平井乙麿や島木赤彦から宮崎信義まで、アララギから新短歌まで、「台所からカフカまで」哲学から短歌論までお互いに語った。安森さんの形式への質問に対して。「やはり自由律とはいえある程度の長さ形は在るのですよ。三十一音は基調音として重んじ、その幅として、五音の誤差はゆるす。短歌を作る意識が重要であり、何を詠うかが先にあって形は後からついてくる。ともかく普段使っている現代の口語で」などと答えた記憶があり、今も変わらぬ私の口語短歌論である。
さて、今年の一月九日昇天、享年七六歳の安森さん。その葬儀について永田淳君から電話が入る。
あわてて信州から葬儀に出席のため京都に宿を取る。翌朝、京都から十三で宝塚線に乗り換え池田市の葬儀場に着いた。安森さんの三男の安森智司牧師の司式で葬儀が行われた。息子の司式で昇天を果たす父・安森さんの幸いを想う。

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