エッセイ

光本惠子のエッセイ

石川啄木のうた -啄木の黒板-

そのかみの神童の名の
悲しさよ
ふるさとにきて泣くはそのこと

ふるさとの山の向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
(石川啄木歌集「一握の砂」) (さらに…)

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宮崎信義の作品から

・山が描けるか風や水が描けるかあと一日で春になる

京都・空印寺の歌碑 宮崎信義歌集「千年」(見えるもの)

この短歌は平成11年(1999年)、宮崎信義87歳の作である。
八十代を過ぎて宮崎信義の眼にはこの地球という星が、争ったり罵り合ったりしている姿を、哀しみをもって見つめていた。日本のなか、特に歌壇のなかはどうだろうか。短歌の形式についても、文語だ口語だ、定型だ自由律だと言ってみても、世の中は自在を求めて変化し流れ着くもの。不確実な世のなかで、さていったい確実なものは何か、私たちはどこへ流れてゆくのか、と思いつつ暮らしている。それを短歌に表現している。
いろいろ将来を苦慮しても、行きつくところに行くのだろう。必ず春はくるのだ。これからも短歌は民族の歌として詠みつづけられていく事だろう。
「私は京の都の高台に座って、これからのようすを耳を視覚を凝らして見つめている」じっくり春になるのを待つのだ。
この歌の「山」「風」「水」は形があって形がない。漠然として、画面の中にこれだっと描くことが出来ない。それを言葉にするのが短歌である。と宮崎は言っている。
宮崎信義は晩年になって、見えなかった物事がうっすらと見えてきた。
焦ってもあわてても春は来る時にやってくる。そうだ。今年も「あと一日で春になる」。その時を静かにまとう。
この歌碑の建つ京都、山越の印空寺は、宮崎の自宅、宇多野からも近く、嵯峨野広沢池の東に位置している。江戸時代の初期に印空上人によって建立されたという寺。門を入ったところに大きな樹木があり、この葉っぱが「葉書」の元になったといわれている。

この短歌の前後には次のような歌も詠んだ。
・冷たい水を飲むと透明になっていく子や孫が遠く手を振る  (いそぐことはない)
・樹をたたくと女の声男の声がする世の中曲がっているとは思わない  (見えるもの)
・国境が消える―寝転んでいるのは犬と風とお陽さま  (見えるもの)

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宮崎信義の歌 - 二段組みの短歌から -

歌集「太陽はいま」(昭和六三年・短歌研究社刊)を取り上げる

宮崎信義の作品の中で上下句に分かれている「二段組み」の作品を選んでみた。
上と下のフレーズで関連のある場合と、内容から見て、吹っ飛んでいる場合とがある。その飛躍が短歌を面白くし、自身のことだけを詠うのではなく、個人的な目線から離れて、視野を広く、短歌を普遍的にする効果があると感じる。 (さらに…)

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宮崎信義の歌“時”のうた

宮崎信義第十歌集「千年」“時”と題するうた三首を取り上げてみよう。

・山の高さを見ているとだんだん山の高さになってくる 遥か

宮崎信義八十六歳の作品である。
「山」とは、遠くに見える山のことだろう。山の高さを感じ取れる場所である平地から向こうに見えているときの山と自分の関係。山に対峙している山が作者と同じような背丈になってきた。山に向かって佇んでいると、その山さえも友を前にして話し合っているような意識。遥か向こうの山とわたしが「だんだん山の高さになってくる」のである。山への親しみがわいてきて、山とわたしは溶け合ってくる。しかし、実際には「遥か」遠く、決して同体になることはない。

・時は戻らぬ悲しみや苦しみは夜が明けるにつれて山へ帰る

「悲しみや苦しみ」は夜中に襲ってくる。悪夢にさいなまれて寝汗で悪寒が走り、目覚めることもある。しかし夜が明けるにつれ「悲しみや苦しみ」は「山へ帰る」という。昼間忙しく暮らしているとき悲しみも苦しみも忘れたように、或は忘れたふりをして動き回っている。ところが夜になるとその感情がどこからともなく再び戻ってくる。
夜が怖い。払っても払っても悪夢が襲ってきて不快な感情に陥る。
発句の「時は戻らぬ」がこの歌の救いである。どんなに後悔しても時は逆廻りしない。時は戻ることなく、ただ忘れてゆくだけ、忘れることは救いである。宮崎信義は「山」が好きな男だ。彼の言うゆったりしておおらかで母のふところのような、そんな山。
「山」には神仏が宿り、いつかは自分もその山に帰ると信じているのであろう。

・歩き出すのは過去を捨て去るため落ち葉を踏んでいるときも

上の句のフレーズにずしーんときた。宮崎信義のように、私もよく歩き回る。じっと同じ処に居たくない。根が生えて自分が茸にでもなってしまいそうで、茸になる前に歩きはじめる。電車に乗り街を出て、やっと大きく深呼吸する。口をパクパク開けて外気を吸い、ようやく人心地が付くのである。歩き出すのは「過去を捨て去るため」かもしれない。現状や過去に安住できない。動き回っているときだけ辛かった過去や現状から離れることができる、未来を見よう。とでも言っているような。「落葉を踏んでいるときも」が計りかねるが、恋人と落ち葉を踏んでいるときさえも、そこから歩き出したい、現状を抜け出したい。八十六歳にして宮崎の安住を求めない精神の若さをみる“時”の短歌には宮崎の精神の若さを見る。

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沈黙

学生時代、遠藤周作の作品は本が出るたびに読み、あるときは長崎の大浦天主堂まで出かけて行った。
この度、遠藤周作の「沈黙」がアメリカ人の監督マーティン・シコッセシによって制作された。
今でも、古い寺の墓地に行くと見ることがある隠れキリシタンの墓。一見、観音様のような姿をしたマリア像。よくよく見ると、マリアを観音様に仕立てた、隠れキリシタンの墓地である。愛知県でも長野県の寺でも私は見た。
時代は江戸時代前後の十六世紀の末から十七世紀の初期の話である。日本に鉄砲や火縄銃が入ってきたころのこと。
キリスト教の布教を許した信長から秀吉、家康と禁止の時代へ入っていく。
中世から近世にかけて、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどはアメリカをはじめとして、南アメリカやアジアの各地域を占領した。始まりは宣教師の名の許だった。
信長の時代、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め大名にも布教を行った。スペイン、オランダなどが、アジアを占領している実態を知った秀吉は、キリスト教を禁止する。さらに、家康は一六三九年にはキリスト教禁止を発表している。
イエス像の銅板を踏むか踏まないか、踏まない者は、キリスト者とみなされ菰にくるまれ海に流され、逆さ吊りされ火あぶりの刑に拷問に処せられた。その惨い姿を映像はあぶりだす。
イエズス会において最高の地位にいた神父、フェレイラが布教のために訪れた日本で過酷な拷問を受け、棄教したという知らせが届いたローマ。弟子である若き宣教師ロドリゴは真相を探ろうと日本行を決行し船に乗る。まずマカオにつく、ここで気弱な日本人、キチジローの案内で日本の長崎天草まで辿りつく。
現在中国領となったマカオであるが、(一九九九年にポルトガルから返還)まだポルトガル領だった頃、私はこの街を旅した。ポルトガル人の建てた煤けた洞窟のような家で麻雀を囲む老人がよろよろ歩く纏足姿が見えた。

さて、そのキチジローの密告によって奉行所に囚われてしまった宣教師、ロドリゴは様々な拷問に遭う。「こんなに苦しむ姿を神は見ながら、なぜ黙っておられるのですか」と呼びかける。ついに彼自身、転びの者として、徳川幕府の下で日本名を与えられ、通事役(通訳などの仕事をする)になった。
エンドウは自身が時には卑怯なキチジローであり、ときには、ロドリゴのような転びの者として人としての悲しみを追及する。「私は命が助かるなら、棄教するだろうと踏絵を踏む」。心張り裂ける思いで映画を観賞する。あの拷問を思うとわたしは生き抜かねばならぬと思うのである。

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柳原白蓮について(Ⅱ)

――柳原燁子小説『荊棘の實』――から

宮崎龍介との出会い

4.

柳原燁子小説『荊棘の實』は昭和三年に新潮社から出版された。このとき、すでに宮崎と暮らして始めることができた。が、彼は病気に罹り、柳原燁子(白蓮)は書いて書いて書きまくり彼との暮らしを立てたのであった。金は無くとも好きな男と暮らせる、その喜びで体中の力が湧いたのであろう。

少し長いがいが抜粋する。( 人身御供401から406ページから)

―――近頃暫らく日曜の教会にも出て来なかつた澄子は、今日久しぶりに学校を訪れた。そしてミスBや、舎監や、その他の人々にも会った後で、春子の部屋の扉(ドア)を叩いた。といふのは、澄子はひとり心の友である春子に、兵庫県の山本氏との縁組が定(きま)つた事について、しみじみと話して見度いと思ったからである。 (さらに…)

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ふたたび柳原白蓮について

1.

柳原白蓮についてはポエムの部屋で何回か書いてきた。NHKの朝のドラマ「花子とアン」の仲間由紀恵の演じる柳原白蓮。とても人気はある。今回はその白蓮について短歌と解説を述べてみたい。

わが浄土はらからもたぬ楽園に君を加へて三人住まばや

われにかつてあたへられたる日のごとく子等がためするひなまつりかな

(柳原燁子歌集『紫の梅』大正十四年聚芳閣刊より)

紫の梅 本扉

この歌は宮崎龍介との間に生まれた男児・香織のためにひな祭りができる喜びの歌だ。

白蓮にとって今までの死をもいとわない自身の個を通した苦しい恋愛事件を想うと、晴れて愛する人の子を産み、愛する人と共に暮らせる喜び、子のために「ひなまつり」ができる。幼い日の自分が、侯爵の娘とした育った頃を思い出して微笑んでいる歌でもある。
(さらに…)

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成功と持続と

さまざまな文学関係の授賞式に参列することが多い。
先日は角川の短歌賞、俳句賞の授賞式に参列した。最近では文学賞では第150回芥川賞、直木賞が決まった。
角川短歌賞を受賞した早稲田の学生Y君は「短歌が嫌いだ」と会衆の前、大声で怒鳴り続けた。
紙面では「高田馬場の食堂で第一報を受けたときは足が震え、視界がかすんだ」ほど嬉しかったと書いているのに。いろんな感情が行き来するのだろう。受賞者の喜びの声を聞いていて思うことは、「この人たちはつづくのだろうか」との思いをつよくする。途中で消えていく人があまりに多いから。
一ケ月、一年、十年、二十年と生活していくうちにはさまざまなことに遭遇する。「文学なんってやっていられない」「食うことに精一杯、短歌を詠むような余裕はないよ」と。興味を失い、或いは経済的な理由を吐いて辞めてゆく人がいる。だれしも当然平坦な日々ではない。 (さらに…)

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宮崎信義生誕百年を記念して

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宮崎信義生誕百年となった。宮崎は口語自由律短歌の「中興の祖」とってよい。

現在光本恵子の主宰する「未来山脈」誌は宮崎の意思を継承して口語自由律歌を標榜する雑誌。そこで「未来山脈」一月号は宮崎信義の生誕百年の特集号とした。

宮崎は明治、大正、そして昭和の初期に紆余曲折しつつ完成を見た口語短歌ではあったが、戦争によって多くの口語歌人が自由に自分の思いを詠むことができなり、多くの歌人が古い文語定型歌に回避した。が、

そんな中、戦争であちこち散らばっていた戦死を免れた人に呼びかけ、戦争から帰還した人たちとともに京都で口語歌人の集団、「新短歌」を宮崎信義を中心に四人で結成したのが昭和二十四年。

(さらに…)

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山崎豊子について

山崎豊子さんが二〇一三年九月二九日に亡くなった。

大正十四年生まれだから八十八歳ということ。私の母と同じ豊子という名が好きだった。山崎さんといえば、京都女子大(旧・京都女専)の国文学科のわたしの大先輩で、学友も卒業すると、山崎さんの秘書になった。まもなく、盗作問題が持ち上がった。「秘書が資料を集めた際に起った手違いであると弁明した」ということだが、そのとき友の困った顔が浮かんだものだ。わたし自身もいろいろ昔の資料を基に「口語自由律の問題点」を探り記すことが多い日々。戦前の短歌作者の資料をあさり、書き写したりしながら、そんなとき、山崎豊子の顔がちらりとよぎるのである。やはり論文的なものだから資料の出所をしっかり書くようにしている。

ところで山崎豊子は江戸時代の千石船(北前船、弁才船)、北海道から大阪堺まで運ばれた昆布屋の老舗、「小倉屋山本」に生まれた。初期の作は苦労して山本を持ちこたえた生家の話を小説に表現した大阪船場の『暖簾』。 (さらに…)

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